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岡部 正綱(おかべ まさつな)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。今川氏、武田氏、徳川氏の家臣。岡部久綱の子、岡部長盛の父。次郎右衛門尉。 『武徳編年集成』には、少年時代の正綱は人質として駿府に連れてこられた徳川家康と仲良くなり、岡部家は日常生活面で助力するなど家康に対して今川家の重臣の中では最も好意的な態度をとっていたことが記されている。 最初は今川家に仕えており、1557年に初陣、兜首2つを獲って名を馳せた。その後、武田信玄の侵攻(駿河侵攻)で駿河国を失うなどして、今川家が勢力を失った後も、今川館に籠もって頑強に抵抗した。今川氏の滅亡後は、その武勇を高く評価され、武田氏の家臣として仕えた。 その後は武田家臣として、三方ヶ原の戦いなど数多の戦で活躍したが、天正9年(1581年)に高天神城が徳川家の侵攻で陥落し、一門の岡部元信ら討ち死にする。その後は徳川家康の家臣となり、天正10年(1582年)6月、本能寺の変で信長が死去して家康が甲斐国に侵攻すると、旧武田家臣の調略などを行って、家康の甲斐平定に尽力した。徳川氏の甲斐支配においては、平岩親吉と同格に置かれていたとする説もある〔柴裕之「徳川氏の甲斐国中領支配とその特質」『戦国・織豊期大名徳川氏の領国支配』岩田書院、2014年〕。 しかし翌年、戦傷が原因で死去したとも、武田旧臣達を調略する際に毎度酒宴を催していたため、急性アルコール中毒で身体を壊して死去したともいわれ、没年・死因ともに異説がある。 正綱の孫・岡部宣勝は祖父の功績を賞されて、和泉国岸和田に6万石を与えられた。 == 脚注 == 〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡部正綱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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