|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 岡 : [こう, おか] 【名詞】 1. hill 2. height 3. knoll 4. rising ground ・ 部長 : [ぶちょう] 【名詞】 1. head of a section or department ・ 長 : [おさ] 【名詞】 1. chief 2. head ・ 職 : [しょしき, しょく] 1. (n,n-suf) employment
岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月3日(嘉永7年11月15日) - 1925年(大正14年)12月27日)は、和泉岸和田藩の第13代(最後)の藩主で、明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。 == 略歴 == 1854年(嘉永7年)11月15日、江戸藩邸にて生まれる。幼名は弥次郎。父の長発は長職が生まれた翌年2月に早世し、家督は伯父の長寛が継いだ。長職は長寛の養嗣子となり、成長した後に家督を譲られることとなった。そして1868年(明治元年)12月28日、長寛の隠居により家督を継いだ。1869年(明治2年)、版籍奉還により知藩事となり、藩政改革を行なった。1871年(明治4年)の廃藩置県で免官となり、東京へ移る。 1874年(明治7年)慶應義塾に入学し、福澤諭吉が「行状宜敷人物」と評して1875年(明治8年)11月、渡米させる。イェール大学へ入学するが中退しており、その理由はあきらかでない。1878年(明治11年)アメリカでリバイバリストのドワイト・ライマン・ムーディーの説教を聞いて回心し、キリスト教信仰を持つことになる。手紙で、日本基督組合教会の新島襄と沢山保羅に手紙で、故郷の岸和田の伝道を依頼する。新島と沢山の伝道の結果、1885年(明治18年)に岸和田教会が誕生した〔『沢山保羅』1977年、127頁〕。 ケンブリッジ大学に数年間学ぶ。その後もヨーロッパ各国を歴訪した。帰国後は、三好退蔵の自宅で聖書研究に参加していたが、近所にあった霊南坂教会(現・日本基督教団霊南坂教会)に合流して教会員になる。 1884年(明治17年)、子爵となる。1886年(明治19年)3月、公使館参議官となる。翌年12月からはイギリス公使館に勤務し、臨時代理公使を務めた。1889年(明治22年)12月には外務次官となり、1890年(明治23年)7月には子爵の貴族院議員となった。青木周蔵外相の下、条約改正に尽力。しかし1891年(明治24年)、大津事件が起こると、その事件の責任を取る形で外務次官を辞任した。 1897年(明治30年)10月、高等官一等に叙任し、東京府知事となる。この頃には貴族院会派・研究会の幹事長を務めるなど、貴族院議員の中心人物として活躍していた。そのため、1908年(明治41年)7月には第2次桂太郎内閣の司法大臣に任じられ、1911年(明治44年)の大逆事件では、その処理に務めている。1916年(大正5年)4月8日には枢密顧問官となり〔『官報』第1104号、大正5年4月10日。〕、同月11日、貴族院議員を辞職した〔『官報』第1107号、大正5年4月13日。〕。 その他、南満州鉄道株式会社設立委員、鉄道国有調査会副会長、宗秩寮審議官、東京保善商業学校校長等の要職を歴任。晩年は一木喜徳郎と共に大正天皇の側近として宮内庁にあった。1925年(大正14年)12月27日、かねてより患っていた脳梗塞が再発し、72歳で死去。両陛下より祭資が執り行われる。 墓所は東京都港区の青山墓地。 身の丈180cmを超えるという、当時としてはもちろん、現代人と比較しても大柄な人物であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岡部長職」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|