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岩代 浩一(いわしろ こういち、1930年8月23日- 2012年4月22日)は、熊本県出身の作曲家。父は教育者:岩代吉親、長男は作曲家、音楽プロデューサーの岩代太郎。 == 来歴 == * 1930年8月23日 熊本県阿蘇に生まれる。幼少時大阪に転居するも中学2年生から再び熊本県阿蘇に転居。〔岩代。〕中学校へは初め自宅から汽車通学していたが、その後熊本に下宿するようになる。素行不良から停学、謹慎、退校などの処分を受けてたびたび登校禁止となり、そうしてできた閑を持て余して、NHK熊本放送局を訪れたり九州管弦楽団の練習所に無断で入りびたったりするようになった。そうした中で音楽の妙を感得する貴重な体験を積んでいく。中学生時代、番組としてスタートしたばかりの「のど自慢」に出場し、優秀賞をもらったこともある。〔岩代。〕父親はそうした岩代を勘当するといったが、2,3日してから「お前が心を入れ替えて本格的に勉強するなら犬童球渓の長男の熊本県教育界筆頭の梅沢信一に紹介してやろう」ということになった。17歳で音楽の個人指導を受け始め、ひそかにプロの作曲家を目指すようになった。そうして音楽への自信をつけていく中で、友人たちに「自分は将来作曲家になる」と話すたび、「現実味のない夢物語だな」と笑われたという。〔岩代。〕 * 1952年 熊本大学教育学部国文科卒業。在学中、16名の楽団を率いて演奏活動を行う。楽団の移動には議員専用のバスを借りたり、会場を借りる費用を安くしてもらう交渉を積極的にするなど努力を積み重ねた結果、多額の収益を得た。その収益でオルガンを購入し、進んで熊本大学に寄贈したので、大学からは一切文句をいわれなかった。〔岩代。〕卒業後、中学校教諭となる。〔岩代熊本市京町の中学に赴任。〕 * 1953年 作曲家を志して上京。梅沢信一の同級生からの紹介で、〔岩代〕東京芸術大学教授の松本民之助、島岡譲に作曲理論を師事。 * 1954年 東京論文コンクール最優秀特別賞を受賞。 * 1958年よりラジオ番組「NHK立体音楽堂」,テレビ番組「歌の広場」などの音楽を担当。以後様々なテレビ番組や東京を中心とした舞台(演劇)などの音楽を数多く担当する。また国民文化祭(文化庁主催)の音楽監督など歴任。長年にわたる民謡関係の番組では、「イワシロ・メロディー」と呼ばれるほどの斬新な発想による編曲を手がけた。テレビ番組「できるかな」の音楽は12年担当。NHK放送基金賞受賞。 熊本県民歌、「火の国旅情」など、全国の抒情歌も多く手がけ、中国の大連市歌、桂林市歌なども作曲。 * 1960年、中山晋平賞受賞。 * 1963年、カンヌ国際音楽賞受賞。 * 1989年、日本作曲家協会賞受賞。 * 2012年4月22日、神奈川県横浜市の病院にて、肺がんのために死去〔岩代浩一氏死去(作曲家) 時事通信 2012年4月23日閲覧〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩代浩一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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