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岩佐 又兵衛(いわさ またべえ、 天正6年(1578年) - 慶安3年6月22日(1650年7月20日))は、江戸時代初期の絵師。又兵衛は通称で、諱は勝以(かつもち)。通称「吃の又平(どものまたへい)」 == 略歴 == 摂津国河辺郡伊丹(現在の兵庫県伊丹市伊丹)の有岡城主荒木村重の子として生まれる〔『岩佐家譜』(享保4年(1731年))より。辻惟雄『日本美術絵画全集 第十三巻 岩佐又兵衛』(集英社、1980年。翌年普及版)及び『岩佐派のゆくえ』展図録(福井県立美術館、1998年)に収録。〕〔黒川道祐『遠碧軒記』(『日本随筆大成 第一期第十巻』所収、吉川弘文館、1975年。新装版1993年 ISBN 4-642-09010-X。2007年 ISBN 978-4-642-04076-1)〕〔近年、『寛永諸家系図伝』所収の荒木家の家系図に、村重の息子に又兵衛に当たる男子の名が無い事、村重の嫡男荒木村次の長男村直の注釈冒頭に「又兵衛」とあり、もし仮に村直と岩佐又兵衛を別人とするとほぼ同時代の一族内に「又兵衛」を名乗る人物が二人いて、更に岩佐又兵衛を系図から抜け落ちていることになり、どちらも却って不自然である事、この荒木家系図を作成し幕府に提出したのは村次の次男で、村直の弟に当たる村常という極めて近い親族であり、この時岩佐又兵衛は存命で同じ江戸で活躍しており誤謬の可能性は極めて低い、などの論拠から、岩佐又兵衛は村重の子ではなく、村重の子村次の長男村直とする研究者もいる(畠山浩一「岩佐又兵衛伝再考 ─血縁関係の再検討を中心に」、『国華』第1364号第114編第11冊所収、2009年)。なお、辻惟雄は翌月の『国華』にてこの論文に批判を加えている(「随想 岩佐又兵衛は村重の子か孫か、母親は? ─畠山氏の論を追考する─」)。〕。誕生の翌年・天正7年(1579年)、村重は織田信長の家臣であったが、信長に反逆を企て、失敗する(有岡城の戦い)。落城に際して荒木一族はそのほとんどが斬殺されるが、数え年2歳の又兵衛は乳母に救い出され、石山本願寺に保護される〔『岩佐家譜』では「西本願寺」と記されているが、当時はまだ西本願寺はなく、石山本願寺か京都の本願寺関連寺院だと推測される。〕。 成人した又兵衛は母方の岩佐姓を名乗り〔〔しばしば又兵衛の母は村重の妻だしとされるが、だしは岩佐姓ではなく、本願寺を実務的な立場から支えた一族・川那部氏の可能性が高い。『寛永諸家系図伝』の村直又兵衛の母は碓井氏とある。村次は『立入左京亮入道隆佐記』などの史料によって明智氏の娘を娶っていたことが知られ、当然岩佐姓ではない。堀直格『扶桑名画伝』では岩佐は乳母の家の姓とし、畠山は土佐派を意識したものとしている(「岩佐又兵衛と荒木一族」、東北大学大学院文学研究科美術史学講座 『美術史学』30号所収、2009年)。〕、信長の息子織田信雄に近習小姓役として仕えたという〔。文芸や画業などの諸芸をもって主君に仕える御伽衆のような存在だったと考えられる。信雄が改易後、浪人となった又兵衛は勝以を名乗り、京都で絵師として活動を始めたようである〔又兵衛自筆の紀行文『廻国通之記』で、京都を「古郷」といい、「わかく盛んなる時、みやこに久しく住なれ」と記している。〕。 大坂の陣の直後の40歳のころ、福井藩主松平忠直に招かれて、あるいは後に岩佐家の菩提寺になる興宗寺第十世心願との出会いがきっかけで、北庄(現福井市)に移住する。忠直配流後、松平忠昌の代になっても同地に留まり、20余年をこの地ですごす。寛永14年(1637年)2代将軍徳川秀忠の招き、あるいは大奥で地位のあった同族の荒木局の斡旋で、3代将軍徳川家光の娘千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り住む。20年余り江戸で活躍した後、波乱に満ちた生涯を終える。家は福井に残した長男岩佐勝重が継いだ。また、長谷川等伯の養子になった長谷川等哲も又兵衛の子といわれる〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩佐又兵衛」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Iwasa Matabei 」があります。 スポンサード リンク
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