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岩城 常隆(いわき つねたか、永禄10年(1567年) - 天正18年7月22日(1590年8月21日))は、安土桃山時代の武将。岩城氏当主。岩城親隆の子。母は佐竹義昭の娘(桂樹院)。左京大夫。 == 生涯 == 父の親隆が病に倒れ人事不省となると、母とその兄の佐竹義重が後見人となり、岩城氏の実権は佐竹氏に握られることになった。天正6年(1578年)に常隆が当主になるが、佐竹氏の家中に対する影響力は変わらなかった。 叔父の伊達輝宗と従弟で輝宗の子の伊達政宗が勢力を広げると、伊達氏の縁戚でもある常隆は当初は融和的な態度をとったが、政宗が岩城氏と対立する田村氏より正妻を迎えると、岩城氏は再び佐竹氏よりとなり、石川氏などと共に伊達氏と対立する。人取橋の戦いにおいては佐竹氏側で参戦し、家臣窪田十郎が伊達氏の重臣鬼庭良直を討ち取る。政宗が摺上原の戦いに勝利し蘆名氏を滅ぼすと石川氏は伊達氏に臣従し、岩城氏は和睦した。 天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣することで所領を安堵されたが、まもなく病に倒れ、鎌倉で死去した。 常隆には政隆という実子がいたが、幼少であったことや、豊臣政権の都合により、佐竹義重の三男である岩城貞隆が養嗣子として岩城氏を継承、政隆は岩城領を追われて祖父の実家である伊達氏に逃れた。 政隆は後に伊達姓に復して仙台藩一門(岩谷堂伊達家)となった。また、その子孫の1人である岩城隆恭が後に岩城氏に入嗣して亀田藩主になっている。岩谷堂伊達氏は明治期に岩城姓に復姓した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩城常隆」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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