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岩崎彌之助 : ミニ英和和英辞書
岩崎彌之助[いわさき]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いわ]
 【名詞】 1. rock 2. crag 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [これ]
 (int,n) (uk) this
: [すけ]
 (n) assistance

岩崎彌之助 ( リダイレクト:岩崎弥之助 ) : ウィキペディア日本語版
岩崎弥之助[いわさき やのすけ]

岩崎 弥之助(いわさき やのすけ、1851年2月8日嘉永4年1月8日) - 1908年明治41年)3月25日)は、日本実業家で、三菱財閥の2代目総帥。男爵三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟にあたる。
== 略歴 ==
岩崎弥次郎美和夫妻の三男〔 『岩崎彌之助傳 (上下)』、上巻p.10 、岩崎家傳記刊行会編纂会刊、1971年/復刊東京大学出版会。1986年。但し次男は夭折しており、三男の弥之助が戸籍上は次男となっている。〕として土佐国安芸郡井ノ口村(現在の高知県安芸市)に生まれた。
1867年慶応3年)、満16歳のときに土佐藩校致道館に入学。この時、岩崎家郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。
1869年(明治2年)には大阪に出て、重野安繹の私塾成達書院に入門した。
1872年(明治5年)4月、アメリカに留学。横浜で貿易商をしていたウォルシュ・ホール社(Walsh, Hall and Co.)のウォルシュ家に寄宿し、フランシス・ホール(同社の社員だが創立者のホールとは別人)の兄エドワードが開校し校長をしていたニューヨーク近郊のコネチカット州エリントンにある男子校(Edward Hall's Family School for Boys)に通った〔Early Experience of Contract Management in the Treaty Ports" Yuki Allyson Honjo, Routledge, Dec 19, 2013〕〔ウォルシュ兄弟 三菱グループ公式サイト〕〔p90 Lynn Kloter Fahy, Arcadia Publishing, Oct 12, 2005〕。1873年(明治6年)11月に父の弥次郎が急逝し、兄の懇願もあって留学を中断し帰国。1874年(明治7年)の秋、弥太郎夫婦の仲人で後藤象二郎の長女・早苗子と結婚した〔 『岩崎俊彌傳』 故岩崎俊弥氏伝記編纂会、1932年、第二篇 小傳、家系 P177。〕。
敬愛する弥太郎の事業を助けるとともに、明治18年(1885年)2月に弥太郎が死亡してからは2代目総帥として三菱の多角化に尽力。三菱商会に共同運輸会社を合併して日本郵船を誕生させ、帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった〔勅選議員は終身となるが、弥之助が登院したのは第1回帝国議会のみである。〕。銀行倉庫・地所・造船などの事業を興した。三菱の総帥の座を甥の久弥(弥太郎の長男)に譲った後に第4代日本銀行総裁となった。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Iwasaki Yanosuke 」があります。




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