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岩崎彌太郎 : ミニ英和和英辞書
岩崎彌太郎[いわさき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いわ]
 【名詞】 1. rock 2. crag 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)

岩崎彌太郎 ( リダイレクト:岩崎弥太郎 ) : ウィキペディア日本語版
岩崎弥太郎[いわさきやたろう]

岩崎 弥太郎三菱史料館展示室に展示中の史料によると存命当時、活字は「岩﨑」を用いており、本人の署名は「岩嵜」であった。一方『平成新修 旧華族家系大成 上巻』(霞会館1996年刊)では「岩崎」となっており、現在の岩崎家は「岩崎」の表記を用いている。〕(いわさき やたろう、天保5年12月11日1835年1月9日) - 明治18年(1885年2月7日)は、日本実業家三菱財閥の創業者で初代総帥。明治の動乱期に政商として巨利を得た最も有名な人物である。(後に)、雅号東山。別名を土佐屋善兵衛。彌太郎とも書く〔三菱グループなどでは「岩崎彌太郎」表記を用いている(参照:岩崎彌太郎年表 )〕。
== 生涯 ==
土佐国(現在の高知県安芸市)の地下浪人岩崎弥次郎美和長男として生まれる。幼い頃から文才を発揮し、14歳頃には当時の藩主・山内豊熈漢詩を披露し才を認められる。21歳の時、学問で身を立てるべく江戸へ遊学し安積艮斎の塾に入塾するが、安政2年(1855年)、父親が酒席での喧嘩により投獄された事を知り帰国。父の冤罪を訴えたことにより弥太郎も投獄されるが、この時、獄中で同房の商人から算術や商法を学んだことが、後に商業の道に進む機縁となった。
出獄後、村を追放されるが、当時蟄居中であった吉田東洋が開いていた少林塾に入塾。後藤象二郎らの知遇を得る。東洋が参政となるとこれに仕え、藩吏の一員として長崎に派遣されるが、公金で遊蕩したことから半年後に帰国させられる。この頃、27歳で弥太郎は長岡郡三和村の郷士・高芝重春(玄馬)の次女喜勢を娶る。
土佐勤王党の監視や脱藩士の探索などにも従事していた弥太郎は、吉田東洋が暗殺されるとその犯人の探索を命じられ、同僚の井上佐市郎と共に藩主の江戸参勤に同行する形で大坂へ赴く。しかし、必要な届出に不備があったことを咎められ帰国(尊王攘夷派が勢いを増す京坂での捕縛業務の困難さから任務を放棄し、無断帰国したともいわれる)。この直後、大坂に残っていた井上は岡田以蔵らによって暗殺されており、弥太郎は九死に一生を得た。帰国後、弥太郎は長崎での藩費浪費の責任なども問われ、役職を辞した。
慶応3年(1867年)、後藤象二郎に藩の商務組織・土佐商会主任・長崎留守居役に抜擢され、藩の貿易に従事する。坂本龍馬が脱藩の罪を許されて亀山社中海援隊として土佐藩の外郭機関となると、藩命を受け隊の経理を担当した。なお、記録上確認できる弥太郎と龍馬の最初の接点はこの時である。弥太郎と龍馬は不仲であったともいわれるが、弥太郎は龍馬と酒を酌み交わすなどの交流があった様子を日記に記しており、自分の夢と志を龍馬に語ったところ、その龍馬は手を叩きながら喜んだ事も記されている。また、龍馬が長崎を離れる際には多額の餞別を贈っている。
明治元年(1868年)、長崎の土佐商会が閉鎖されると、開成館大阪出張所(大阪商会)に移る。翌、明治2年(1869年)10月、大阪商会は九十九(つくも)商会と改称、弥太郎は海運業に従事する。このころ、土佐屋善兵衛を称している。廃藩置県後の明治6年(1873年)に後藤象二郎の肝煎りで土佐藩の負債を肩代わりする条件で船2隻を入手し海運業を始め、現在の大阪市西区堀江の土佐藩蔵屋敷(土佐稲荷神社付近)に九十九商会を改称した「三菱商会(後の郵便汽船三菱会社)」を設立。三菱商会は弥太郎が経営する個人企業となる。この時、土佐藩主山内家の三葉柏紋と岩崎家の三階菱紋の家紋を合わせ、広く知られる三菱のマーク「スリーダイヤ」を作った。三菱商会では出自を差別せず、海援隊や士族出身の社員に対しても徹底して商人としての教育を施した。

File:Japanese crest Tosa kasiwa.svg|土佐山内家が用いていた「土佐柏」
file:Japanese Crest kasane sanngai Hisi.svg|岩崎家が用いていた「重ね三階菱」

最初に弥太郎が巨利を得るのは、維新政府が樹立されて紙幣貨幣全国統一化に乗り出した時のことで、各藩が発行していた藩札を新政府が買い上げることを事前に察知した弥太郎は、10万両の資金を都合して藩札を大量に買占め、それを新政府に買い取らせて莫大な利益を得る。この情報を流したのは新政府の高官となっていた後藤象二郎であり、今でいうインサイダー取引であった。弥太郎は最初から政商として暗躍した。
三菱商会は、明治7年(1874年)の台湾出兵に際して軍事輸送を引き受け、政府の信任を得る。明治10年(1877年)の西南戦争でも、輸送業務を独占して大きな利益を上げた。政府の仕事を受注することで大きく発展を遂げた弥太郎は「国あっての三菱」という表現をよく使った。しかし、海運を独占し政商として膨張する三菱に対して世論の批判が持ち上がる。農商務卿西郷従道が「三菱の暴富は国賊なり」と非難すると、弥太郎は「三菱が国賊だと言うならば三菱の船を全て焼き払ってもよいが、それでも政府は大丈夫なのか」と反論し、国への貢献の大きさをアピールした。
明治11年(1878年)、紀尾井坂の変大久保利通が暗殺され、明治14年(1881年)には政変大隈重信が失脚したことで、弥太郎は強力な後援者を失う。大隈と対立していた井上馨品川弥二郎らは三菱批判を強める。明治15年(1882年)7月には、渋沢栄一三井財閥益田孝大倉財閥大倉喜八郎などの反三菱財閥勢力が投資し合い共同運輸会社を設立して海運業を独占していた三菱に対抗した。三菱と共同運輸との海運業をめぐる戦いは2年間も続き、運賃が競争開始以前の10分の1にまで引き下げられるというすさまじさだった。また、パシフィック・メール社P&O社などの外国資本とも熾烈な競争を行い、これに対し弥太郎は船荷を担保にして資金を融資するという荷為替金融(この事業が後の三菱銀行に発展)を考案し勝利した。こうしたライバルとの競争の最中、明治18年(1885年)2月7日18時30分、弥太郎は51歳で病死した。
弥太郎の死後、三菱商会は政府の後援で熾烈なダンピングを繰り広げた共同運輸会社と合併して日本郵船となり、後を継いだ弟の弥之助は帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった。現在では日本郵船は三菱財閥の源流と言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岩崎弥太郎」の詳細全文を読む




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