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岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した藩〔二木謙一監修・工藤寛正編「国別 藩と城下町の事典」(東京堂出版、2004年9月20日発行)304ページ〕。 == 戦国時代 == 岩村が有名になったのは戦国時代である。当時、美濃を支配下に置いていた織田信長は、元亀年間に敵対した武田信玄の領国・信濃との要衝にある岩村城の重要性を考えて、城主・遠山景任に美貌で知られた自身の叔母・おつやの方を妻として娶らせ、一門衆として遇していた。やがて足利義昭との対立から各国に信長包囲網が敷かれると、岩村も元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦に伴ってその家臣・秋山虎繁(信友)に攻められることとなる。景任は懸命に防戦したが、不幸にもその最中に病に倒れ、死去してしまった。信長も当時は浅井長政と対峙していたため、援軍を送ることができなかった。 城将がおらず、援軍の望みも無い岩村城はかくして武田軍の手に落ちた。しかしこのとき、秋山虎繁はこともあろうに景任未亡人のおつやの方を溺愛し、結婚してしまったのである。これを知った信長は激しく怒り、信玄の死や長篠の戦いで武田氏が衰えると、即座に岩村城に対して大軍を差し向けた。虎繁は懸命に防戦したが持ちこたえられるわけが無く、捕らえられて岐阜に送られ、逆さ磔の極刑に処されてしまったのである。このとき、信長は叔母のおつやの方、そして城兵全員までをも処刑している。信長の凄まじい怒りが虐殺という形で現われたのであった。 豊臣氏時代は、田丸忠昌が4万石で入っていた。忠昌は関ヶ原の戦いのとき、徳川家康に従って下野国小山まで参陣したが、家康が石田三成の挙兵を知って軍を西に返すと、「豊臣秀頼さまに背くことはできない」と言って家康の下から去り、西軍に与した武将である。しかしこのため、戦後に改易されてしまった。 しかし、田丸忠昌(直昌)が小山参陣した形跡は無く、自身は大阪の守備につき、戦後改易されている。上記の話は創作であるとも言われている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩村藩」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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