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岩村 高俊(いわむら たかとし、弘化2年11月10日(1845年12月8日)- 明治39年(1906年)1月4日)は、江戸時代後期の土佐藩士、明治期の官僚、華族である。初名は精一郎。 宿毛領主伊賀家に仕えた岩村英俊(礫水)の三男で、岩村通俊、林有造の弟。位階勲等は従二位、勲二等、男爵。美術評論家・美術史家の岩村透は長男、次男は建築家の竹腰健造。 == 経歴 == 土佐幡多郡に生れる。藩校の文武館で蘭学や砲術を学ぶ。慶応3年(1867年)9月に通俊の鉄砲購入に随行して長崎へ行く。ここで監察・佐佐木高行の添え書きを得て11月に上京し、陸援隊に入隊した。直前に同郷の坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋で暗殺されると、暗殺者と噂された紀伊藩三浦休太郎を陸奥陽之助らと共に襲撃した(天満屋事件)。その後、鷲尾隆聚の高野山出兵に参加している。 戊辰戦争では、新政府軍の東山道先鋒総督府の監察および応接係として転戦。北越戦争では山道軍を率いて越後国の長岡に迫り、小千谷の慈眼寺にて長岡藩家老河井継之助と会談する。だが、「会津藩を説得する」という河井の嘆願を「時間稼ぎであろう」と全く聞く耳を持たず交渉は決裂、結果として長岡藩は新政府軍の敵に回って激戦が行なわれた。明治2年(1869年)には戊辰戦争の功で永世禄高200石を得た。 維新後、有栖川宮家令、宇都宮県・神奈川県の権参事を務めた後、明治7年(1874年)2月に佐賀県権令となり、内務卿・大久保利通の内意を受けて江藤新平を盟主とする征韓党の挙兵(佐賀の乱)の鎮圧に努めた。乱の後は内務省に移り、大久保の随員として井上毅らとともに清国を訪れている。同年11月には江木康直の後任として愛媛県へ赴任。明治13年(1880年)まで権令を務め、地租改正や民会施策などを実施。以後は内務省の大書記官、石川、愛知、福岡、広島の県令や知事を歴任、明治25年(1892年)に貴族院議員となり、明治29年(1896年)には男爵に叙された。明治31年(1898年)7月30日、錦鶏間祗候に任じられた〔『官報』第4526号、明治31年8月1日。〕。 晩年は京都市の一条堀川に住み、議会開催中のみ上京していた。長男の岩村透が男爵位を継いでいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩村高俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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