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岩松八弥 : ミニ英和和英辞書
岩松八弥[いわまつ はちや]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いわ]
 【名詞】 1. rock 2. crag 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [やつ]
 (num) eight

岩松八弥 : ウィキペディア日本語版
岩松八弥[いわまつ はちや]
岩松 八弥(いわまつ はちや、生年不詳 - (一説に)天文18年3月6日1549年4月3日))は、戦国時代三河国岡崎城主松平広忠徳川家康の父)を刺殺したとの伝承がある人物。山岡荘八の小説『徳川家康』に取り上げられて流布したほか、これを史実として肯定する説がある(後述)。史料上の初見は、正保年間成立の三河後風土記。

== 広忠襲撃事件 ==
松平広忠を刺殺したという説のほか、襲ってすらいなかったり、襲っても殺害まで至らないなど諸説ある。
*大久保忠教の『三河物語』には、岩松八弥の名前および広忠襲撃事件の記載はなく、松平広忠は病死とある。
*『東照宮御実紀』(徳川実紀)には、岩松八弥が隣国の刺客として、広忠を襲撃して一刀突いたとあるが死去とされていない、後に逝去とあるが死因に記載はない。
*『岡崎領主古記』〔新編安城市史5資料編「古代・中世」には、総侍尼寺の寺侍本間重豊著で、17世紀のうちに成立したとあり、具体的な年次の記載はない。愛知県図書館所蔵には、出版年・寛政11年(1799年)、出版者・中村左京、出版地不明とある。岡崎市図書館にも、写本複製とあるが、年次の記載はない。国立国会図書館・国立公文書館DBには登録されていない。〕には、天文18年3月6日に広忠が岡崎において「横死」したとして以下の所伝を記している。
 *「佐久間」〔愛知県図書館所蔵本などでは「佐久間」とのみ記すが「朝野旧聞裒藁」所載のものは「佐久間九郎左衛門」と記している。宮内庁書陵部所蔵「静幽堂叢書36」(請求番号:103-10)所載「岡崎領主古記」がこれにあたる。〕なる人物が広忠を討つべく家臣を岡崎へ奉公にだした。広忠はこれを「片目弥八」と呼んでいた。この日、広忠が縁側にでて「炎」(灸)を近侍のものにみせていたところ「弥八」が「後ヨリ討奉テ」逃走した。彼は「大手先ノ堀ノ中」で討ち取られた。
*『三州八代記古伝集』〔国立公文書館DBには、選者あるいは著者・水野監物、校訂者・竹渓伯竜 旧蔵・昌平坂学問所とある。岡崎市図書館にも、写本複製が所蔵されている。〕には、広忠は病死したとしつつ(巻8下「広忠公御早世ノ事」)、一説として〔「其の実は」として広忠の殺害を記すが、もともとこの項目は「又曰く」として述べられていることから。〕「片目八弥」による広忠の殺害を次のように記している(同「安城ノ城攻之事」。年次不明)。
 *「八弥」は「広瀬ノ領主佐久間九郎左衛門」〔「佐久間九郎左衛門」は明治25年の「三河国西加茂郡誌」141頁および同書の出典としてその名がみえる「東照軍鑑」(成立年不明)では「全孝」とされている(巻1)。「三河国二葉松」「三河志」には「九郎左衛門」とする以外に見るところがない。〕が広忠に近侍させたもので、「兼テ申含メ」られた八弥は「御書寝被成ケル所ヲ不意ニ討奉リ」逃走した。彼は「植村新六郎」によって堀に追い詰められ、討ち取られた。
*植村家貞の『貞享書上』(内閣文庫刊行本『譜牒余録』中巻723頁および『朝野旧聞裒藁』678頁に採録)には、広忠を脇差で刺したものの殺害するには至らず、八弥はその首を植村新六郎家政〔『寛政譜』では「家存 初め家政」(新訂5巻174頁)とされる人物。その孫の植村家政とは異なる(同頁)。ただし『寛永諸家系図伝』『寛政譜』共に、広忠を襲った「浅井某あるいは蜂屋」(後述)を討ち取ったのは「家政」の父「某・新六郎」のこととして記し、「或は曰く家政」とする説を否定している。松平清康の殺害犯阿部正豊を討ち取った「某・新六郎」と同一人物とみられることを理由とする。なお『寛政譜』ではこの「某・新六郎」の項に「今の呈譜、氏明に作る」とし(同前173頁)「栄安」を法名としている。〕にとられ、この功により植村は感状を与えられたと記している。年次は不明である。
*『武徳大成記』には、天文15年の記述の後に「此頃」の事として記す。それによると、八弥は「隣国のために謀られ」刀を抜いて寝所の広忠を刺した。逃げたところを植村新六郎家政に捕らえられ、2人は堀の中に落ちた。松平信孝が鑓で八弥を突こうとしたが〔信孝は天文17年に広忠と戦い討たれているので、18年に事件が起きたとすると矛盾する〕、結局植村がその首を斬ったという(刊行本1巻96頁)。植村が感状を受けたことなども記されている。広忠は病死したとする(刊行本1巻106頁)。
*『三河後風土記』には、〔序によれば徳川家康譜代の家臣の平岩親吉著作。国立公文書館・国立国会図書館DB登録。幕府の儒学者の成島司直が、幕末天保に、これを原書として校正する形で、「改正三河後風土記」を作成した。成立年代については、改正三河後風土記・凡例によると、原書・三河後風土記は寛永正保の頃の撰述という。江戸初期に既に成立していたという。〕天文14年3月19日、松平広忠が、戸田弾正頼光が娘を娶り、祝いの席で皆が奇芸を披露したも、一眼の岩松八彌は武勇はあるが遊芸などを知らず、嘲わられたという。その翌日広忠が手洗い場に立った所を、後方から八弥が村正の脇差で刺そうとした。広忠はこれをかわしたが傷のため追いかけることができず、番替わりで登城の折の植村新六郎家次〔『三河後風土記』では、松平清康の件は「植村新六郎栄安」、松平広忠の件は「植村新六郎家次」とあり、同一人物・別人については触れていない。『改正三河後風土記』には文中で注釈がある。『改正三河後風土記』では「植村新六郎家次」ではなく、「植村新六郎」(系図には某、諱を持益:もちまさ、出羽守家政が父、大三河志は永政とする)とあり、松平清康森山崩れで、阿部正豊を討った人物と同一人物であり、清康、広忠、2代の主君の敵を討った勇士とし、井田合戦で討死は誤り、と記す。〕が異変に気付き、逃亡した八弥を追い詰め、手傷を負うも捕らえた。また松平信孝がこの異変に気付き、槍で八弥を突き留めたという。松平広忠は、傷を負うも死亡には至らず、天文18年3月6日に病死したとする。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岩松八弥」の詳細全文を読む




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