翻訳と辞書
Words near each other
・ 岩松村 (静岡県)
・ 岩松橋
・ 岩松次郎
・ 岩松氏
・ 岩松氏純
・ 岩松湖
・ 岩松満国
・ 岩松満純
・ 岩松町
・ 岩松発電所
岩松直国
・ 岩松祐輝
・ 岩松経国
・ 岩松義雄
・ 岩松道純
・ 岩松院
・ 岩松駅
・ 岩松鷹司
・ 岩柳地区
・ 岩栓


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

岩松直国 : ミニ英和和英辞書
岩松直国[いわまつ ただくに]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いわ]
 【名詞】 1. rock 2. crag 
: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [ひた, ちょく]
 【名詞】 1. earnestly 2. immediately 3. exactly
: [くに]
 【名詞】 1. country 

岩松直国 : ウィキペディア日本語版
岩松直国[いわまつ ただくに]

岩松 直国(いわまつ ただくに、生没年未詳)は、南北朝時代武将岩松氏当主。岩松氏の中興の祖とされる人物である。岩松政経の子。兄に世良田義政〔、経家頼宥ら。
== 人物・生涯 ==
建武元年(1334年)、養母・妙蓮より新田荘内の所領を譲り受けたことが史料における初見である。その所領は、嘉禄3年(1227年)、足利義純の子・岩松時兼に嫁いで経兼を生んだ土用御前が実父の相馬能胤から譲り受けた所領を基礎に、そこに多少の岩松所領が加わって構成されたもので、以後は娘の真如、孫娘の妙蓮へと相伝された後に、直国(豊王/土用王)がこれを譲り受けることになった〔小国、2001年、P.64。〕。2種類が伝わる同年12月21日付の譲状〔『大日本史料』六之二 P.195-197。『南北朝遺文』関東編1 P.79-80、186号・187号文書「尼妙蓮譲状写」。〕の「□□□(ゆつり)わたす(譲り渡す)やうし(養子)みなもと(源)のとよわう」と「ゆつりわたすやうし三郎たゝく□(に)」、「とよわうとのをやうしとして」と「たゝくに□(を)やうしとして」が対応しており、この頃に「とよわう」(豊王/土用王)は元服して「たゝくに」(=ただくに、直国)と名乗ったとされる〔阪田、1994年、p.3。『南北朝遺文』関東編1 P.80。〕。建武元年12月は足利直義成良親王を奉じて鎌倉将軍府を形成した月でもあり、本家筋の新田氏〔厳密には岩松氏は足利一門・畠山氏の支流にあたるため、新田氏の一族ではないが、『尊卑分脉』・『系図纂要』以下の系図類によれば直国の父・政経は「新田下野守(=得川頼有猶子」であったといい、形式上は新田一門となっていたことになる。〕(新田義貞)から離れ足利氏への接近を図る岩松氏惣領岩松経家が弟の土用王を元服させるに際して直義に加冠を求めた結果、土用王は烏帽子親である直義から偏諱を受けて直国と名乗ったのだという〔以上、阪田雄一の見解による(阪田、1994年、p.2-3)。〕。
以上のように、岩松氏の惣領は兄・経家が継いでおり〔『系図纂要』の経家の項に「父政経譲与岩松家督」とある。〕、また妙蓮の養子となって所領を譲り受けたことから、直国については、当初周囲からは岩松家の惣領となる存在とは認知されていなかったと考えられる〔が、翌建武2年(1335年)の中先代の乱で経家をはじめとする一族の多くが戦死する〔『群馬・通』P.346。『系図纂要』によれば、経家のほか、兄弟の本空と頼宥も同時に戦死したというが、頼宥に関してはその後観応の擾乱に至るまでの生存が確認できる(備考を参照のこと)。〕とその立場は急変する。『系図纂要』の岩松氏系図を見ると、直国の項には「兄経家戦死其子泰家幼少父政経加下知以直國継岩松名跡…(以下略)」とあり、経家の子(直国の甥)である岩松泰家の項にも「父経家戦死時年幼也叔父直國執事成長後復本領」と注記されている。すなわち、経家が戦死した時、その嫡子である泰家はまだ幼少であったので、叔父である直国がその成長まで岩松氏の家督を継ぐこととなったようである〔。
前述したように、烏帽子親子関係を結んだ経緯もあって、以後は足利直義と行動を共にするようになり、早速建武3年(1336年6月9日には直義の命により美濃尾張等の軍勢を率いて京へ向かわされている〔阪田、1994年、p.3。典拠は『正木文書』。〕。また、直義が最も信頼していた鎌倉府執事上杉憲顕の娘を妻に迎えて関係を深めた。貞和3年(1347年)には新田荘由良郷地頭職に補任された。 観応元年(1350年12月23日、新田荘内の世良田右京亮桃井直常らの旧領を与える旨の高師直奉書が室町幕府(将軍は足利尊氏)より下される〔同日付「幕府執事高師直奉書」(『正木文書』)。〕。特に直常は直義派の武将であり、一見直国が直義派から離脱したかに見えるが、これは師直ら尊氏派による憲顕―直国間の分離工作であったとされている〔阪田、1994年、p.3。〕。実際、翌2年(1351年7月3日には直義より全知行を安堵されており〔同日付「足利直義御教書」(『正木文書』)。〕、観応の擾乱でも引き続き直義派の武将として活動していたことが窺える。
延文2年(1357年8月21日、直国の領地であった武蔵国春原庄内萬吉郷が跡として伊豆吉祥寺に寄進され〔同日付「足利基氏寄進状」(『神田孝平氏旧蔵文書』)。〕、貞治元年/康安2年(1362年8月11日には、尊氏の子で鎌倉公方であった足利基氏宇都宮氏綱征伐(武蔵国岩殿山の合戦)に従軍して戦功を挙げたことにより、基氏から本知行分が還補されている〔同日付「足利基氏御教書写」(『正木文書』、『南北朝遺文』関東編4 P.267、3033号文書)。〕。同文書に「本知行分事、如元所還補也、」と記されている〔阪田、1994年、p.4。峰岸純夫「室町時代東国における領主の存在形態」(所収:同氏『中世の東国 地域と権力』、東京大学出版会、1989年)。〕ことから、観応の擾乱後は直義党であったことにより一旦処罰され、前述の活躍によって基氏の信頼を得たものと推測されている〔阪田、1994年、p.4。〕。これには義父・上杉憲顕の動向も関係しているものと推測されている〔小国論文参照。〕。貞治3年(1364年)7月、基氏の逆鱗に触れた世良田義政(直国の兄とされる〔)が郎党の梶原景安とともに鎌倉如来堂で誅殺され〔小国論文参照。典拠は『喜連川判鑑』、『鎌倉大日記』、『常楽記』、『後鑑』所収萬澤文書。〕、直国の近親者とみられる岩松直明上総守護となったという〔小国、2001年、P.61。〕。さらに新田荘江田郷も直国に与えられ、翌貞治4年(1365年)には基氏の兄で2代将軍の足利義詮からも直国に対する本領安堵の御教書が与えられた。以降は基氏の近臣として活動し、従孫(泰家の子)の岩松満国以降も鎌倉公方に仕えた。没年は不明だが、至徳2年(1385年)までの生存は確認できる(後述参照)。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岩松直国」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.