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岩槻城(いわつきじょう)は、武蔵国埼玉郡岩槻(現在の埼玉県さいたま市岩槻区)にあった岩槻藩の藩庁(日本の城)。江戸時代以前には岩付城とも書かれた。県指定史跡。 == 歴史 == === 室町時代 === 従来は『鎌倉大草紙』により、古河城にいた古河公方・足利成氏に対抗するため、1457年(長禄元年)、扇谷上杉持朝とその家臣太田道真・太田道灌父子により、江戸城・河越城とともに築かれたとされていた〔『鎌倉大草紙』巻五(第四編十九号)「長禄元年四月、・・・太田備中守入道ハ武州岩槻の城を取立、・・・」による。〕。しかし、1478年(文明10年)に古河公方方の忍城主成田顕泰の父成田自耕斎正等が築城したと記述された史料〔『文明明応年間 関東禅林詩文等抄録』所収の『自耕斎詩軸并序』にある記述 「武州騎西郡有村、曰岩付、又曰中扇、附者傅也、岩付左衛門丞顕泰公父故金吾、法諱正等、挟武略之名翼、有門蘭乃輝、築一城」による。〕が発見され〔本史料は、 長塚孝「古河公方足利氏と禅寺寺院-旧利根川下流域を中心に-」『葦のみち〈三郷市史研究〉』2号、1990年 により着目されるようになった。〕、近年は成田氏築城説が有力視され始めている〔黒田基樹 『戦国東国の大名と国衆』 岩田書院、2001年、60-64頁(岩付城の築城時期と初期の城主)。初出は「扇谷上杉氏と渋江氏-岩付城との関係を中心に-」、『北区史研究』2号、1994年〕〔黒田基樹 『扇谷上杉氏と太田道灌』 岩田書院、2004年、175-177頁(岩付太田氏の成立)〕。これに対して最近、成田氏築城説の根拠となった史料について、新たな解釈が示されている。すなわち、本史料で築城者「正等」の子としている「顕泰」は成田顕泰ではなく、長尾忠景の三男であり太田道真の養子になった人物とし、「正等」は道真の法諱(仏法社会の本名)とみなす〔小宮勝男『岩槻城は誰が築いたか』、さきたま出版会、2012年〕。2014年の時点では太田氏築城説と成田氏築城説が並立している状態である。 その後、永正7年(1509年)には、古河公方奉公衆である渋江氏が岩槻城主となったとみられている〔黒田基樹「岩付太田氏の系譜と動向」黒田編『論集戦国大名と国衆12 岩付太田氏』所収、岩田書院、2013年〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩槻城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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