|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 岩 : [いわ] 【名詞】 1. rock 2. crag ・ 槻 : [つき] 【名詞】 1. Japanese zelkova 2. zelkowa serrata ・ 城 : [しろ] 【名詞】 1. castle ・ 戦 : [いくさ] 【名詞】 1. war 2. battle 3. campaign 4. fight ・ 戦い : [たたかい] 【名詞】 1. battle 2. fight 3. struggle 4. conflict
岩槻城の戦い(いわつきじょうのたたかい)は、大永5年(1525年)に武蔵岩槻城(岩付城)で行なわれた相模の北条氏綱軍と武蔵の扇谷上杉朝興の家臣・太田資頼の合戦である。 なお、岩槻城攻防戦はこの他にも多数あり、永禄7年(1564年)の太田資正時代と、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原征伐時の2つの攻防戦が有名である。 == 大永5年の合戦の経緯 == 大永4年(1524年)1月の高輪原の戦いに勝利して武蔵進出の足掛かりを得た北条氏綱は、武蔵平定のために扇谷上杉家の属城である岩槻城攻略に取りかかった〔 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.78〕。当時、岩槻城は朝興の家臣・太田資頼が守っていたが、氏綱は資頼の家臣である渋江三郎を調略して内応させた〔。これにより、大永5年(1525年)2月6日に岩槻城は陥落した〔。 ただしあっさり北条家の手中に落ちたわけでは無く、資頼は岩槻城の堅固を利用して北条軍に3,000余の戦死者を出させるなど善戦し〔、山内上杉憲房や朝興も支援に出たが、遂に持ちこたえられなくなり、岩槻城を放棄して逃亡したという〔。 戦後、北条氏綱は渋江三郎を岩槻城代にして江戸城に引き揚げた〔 小和田哲男 著『戦国合戦事典‐応仁の乱から大坂夏の陣まで』PHP研究所、1996年、p.79〕。しかし朝興ら扇谷上杉家の抵抗は激しく岩槻を北条家の領国化とする事はかなわずに享禄3年(1530年)9月に太田資頼により奪回された〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩槻城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|