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岩津松平家 (いわつまつだいらけ)とは、室町時代(15世紀)に西三河地方に分出した松平氏の一流。古文書における関係人物の表記で、岩津は岩戸とも表記されている。三河松平氏の宗家2代目当主とされる松平泰親が岩津城(岡崎市岩津町東山(城山))を本拠にしたのに始まる。その後、信光・親長と継承されたが、今川氏の岩津城攻撃を受けて衰退し、松平氏庶流の安城松平家が岩津家に代わって惣領家化した。その後、岡崎の宗家第八代(安城家の五代目)・広忠の代には岩津家の跡が絶え、三木松平家とされる信孝によって遺領が押領されたという。 == 岩津松平家の発祥 == 『三河物語』によれば、松平氏第二代とされる泰親は松平郷を出て岩津の城を奪い居城としたという〔参考文献の1、59頁。〕。初代親氏の時に討伐して屈服させたという「中山十七名(中山七名とも)」の一つ、加茂郡林添(豊田市林添)の藪田氏の残党が泰親領近隣に出没して諸人を悩ませていたという。その背後には奧岩戸の岩戸大膳(岩津大膳・中根氏)があると見た泰親は満月の夜に岩津の城を急襲して攻め落とした。岩津大膳は切腹して果て、泰親がこれに移ったという〔泰親の岩津城略取の経緯→参考文献の2、48頁(新行紀一、『三州八代記古伝集』の記述による紹介)。〕。これらの伝承について、応永28年(1421年)に武力奪取と推定する説や〔参考文献の2、14頁、中村孝也。〕、岡崎市岩津町の若一神社棟札写しの「大檀那松平用金」の在銘が泰親の法名用金(ゆうきん)であることおよびその日付により、この岩津城進出が応永33年(1426年)以前としながらも、この進出は武力ではなく買得によるものと推論する説もある〔棟札銘文による親氏・泰親の活動を歴史的事実とした新行氏の評価。参考文献の1、53-54頁。〕〔「岩津進出」参考文献の1、48-49頁、平野。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩津松平家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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