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岩田 祐吉(いわた ゆうきち、1887年3月23日 - 1980年1月18日)は、日本の映画俳優。 新派から映画界に入り、初期の松竹蒲田撮影所で二枚目俳優として活躍した。栗島すみ子とのコンビで人気を博し、諸口十九・勝見庸太郎らと並んで松竹の代表的スターとなった。独特の渋い演技で幅広い役柄をこなし〔岩田祐吉 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2014年12月24日閲覧〕、後年は脇役に転向した。 == 来歴・人物 == 1887年(明治30年)3月23日、岐阜県大垣市田町に岩田加兵衛の6男として生まれる〔『大正人名辞典Ⅲ 上巻』p.87〕。中学卒業時に家業の呉服屋が倒産し、単身で中国に渡るが、志敗れて2年後に帰国した〔『日本映画俳優全集・男優篇』、キネマ旬報社、1979年、p.71〕〔『世界映画俳優名鑑 大正十一年度』、キネマ同好会、1922年、p.68〕。帰国後は劇界に志を向け、1908年(明治41年)11月に開所した藤沢浅二郎主宰の東京俳優養成所(後に東京俳優学校に改称)に第1期生として入所〔。同期に田中栄三、諸口十九、上山草人、勝見庸太郎らがいる。1911年(明治44年)に同校を卒業し、俳優学校第一回卒業生試演『廃馬』(佐藤紅緑作)に諸口、田中らとともに出演した〔『日本演劇史年表』、八木書店、1998年、p.236〕。 その後は河合武雄の門下に入り、1913年(大正2年)に河合が設立した公衆劇団に参加。花柳章太郎と前後して新派劇の幹部に列せられた。1915年(大正4年)9月には武田正憲と川村花菱が旗揚げした新日本劇に参加。座員には五月信子、正邦宏、花柳、永井赤鳥らがいた〔柳永二郎『木戸哀楽 新派九十年の步み』、読売新聞社、1977年、p.93〕。 1920年(大正9年)、創立間もない松竹蒲田撮影所に入社し、村田実監督の『奉仕の薔薇』(翌年に公開)で映画初出演。翌1921年(大正10年)公開の『悪魔の崖』(賀古残夢監督)で初主演し、4月公開の『虞美人草』(ヘンリー・小谷監督)で栗島すみ子と共演して好評を博す。以来、賀古監督の『酒中日記』、池田義信監督の『暮れ行く旅路』『乳姉妹』などの作品で栗島と共演し、川田芳子・諸口十九と並ぶ松竹蒲田のドル箱コンビとして人気を得た。1923年(大正12年)には池田監督の『船頭小唄』で栗島と主演、作品は大流行した主題歌とともに全国的にヒットした〔。その後も牛原虚彦監督の『黒川博士』『乃木大将伝』、島津保次郎監督の『お坊ちゃん』、野村芳亭監督の『父帰る』などに主演、佐々木恒次郎監督の『永遠の心』はドイツにも紹介され、その演技力は高く評価された。1929年(昭和4年)1月8日、井上正夫、藤野秀夫、栗島、川田芳子、柳さく子とともに大幹部に昇格した〔『松竹七十年史』、松竹株式会社、1964年、p.263〕。 1930年代は中年の脇役に回ることが多くなり、島津監督の『隣の八重ちゃん』などでは父親役を演じた。1938年(昭和13年)以降は新興キネマに出演したが、1942年(昭和17年)公開の『春遠からじ』以降の映画出演はない。その後は鎌倉で妻と共に暮らしていたという。1979年(昭和54年)に第3回山路ふみ子映画功労賞を受賞。 1980年(昭和55年)1月18日、老衰のため東京都世田谷区の自宅で死去。92歳没。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岩田祐吉」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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