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岩野泡鳴 : ミニ英和和英辞書
岩野泡鳴[いわの ほうめい]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [いわ]
 【名詞】 1. rock 2. crag 
: [の]
 【名詞】 1. field 

岩野泡鳴 : ウィキペディア日本語版
岩野泡鳴[いわの ほうめい]

岩野 泡鳴(いわの ほうめい、1873年明治6年)1月20日 - 1920年大正9年)5月9日)は、明治大正期の日本小説家詩人。本名は岩野美衛(よしえ)。名東県津名郡洲本馬場町(現・兵庫県洲本市海岸通2丁目)出身。明治学院仙台神学校(現在の東北学院)、専修学校(現在の専修大学)に学ぶ。当時、神田神保町の専修学校では法律学と経済学を修め、1891年(明治24年)に卒業した。彼が満足に学校を終えたのは専修学校だけであり、卒業後、彼は志を転じ文学に向かう。
その後、詩人として文壇入りし、小説家に転進する。田山花袋島村抱月に次ぐ自然主義文学者として活躍した。作者の主観を移入した人物を描く「一元描写」論を主張したため、田山花袋の「平面描写」論と対立した。「神秘的半獣主義」を提唱し、霊肉一致、刹那主義を唱えるが、言辞の難解にもかかわらず、欲望の赴くままに女と関係するというような生活ぶりで、「僕は神だ」と演説するなど奇矯な言動が多かった。一時期、カニの缶詰工場を作るために、樺太に渡るが、事業に失敗するなど、非常に活動的な人物だった。
== 年譜 ==

*1873年(明治6年) 元阿波藩士の父・直夫、母・さとの長男として出生。岩野家は、代々蜂須賀家の江戸詰直参であったが、泡鳴の祖父の代で、洲本に転住した。稲田騒動の余波もあって、日進小学校(現・洲本第二小学校)時代の泡鳴は、土地の者から迫害され、独存自我が生成されていった。これは泡鳴文学の発祥基盤でもあった。
*1887年(明治20年)14歳 大阪の泰西学館で受洗。
*1888年(明治21年)15歳 一家をあげて上京。父は巡査上がりで、のち東京で旅館「日の出館」(芝区西久保八幡町)を経営する。
*東北学院在学中から詩作を行う。
*竹腰幸子と結婚、四男二女を儲けるが男児二人が夭折。
*実母が死去、継母が来る。
*1889年(明治32年)26歳 滋賀県大津市に住んで英語教師をする。
*1902年(明治35年)29歳 上京し、大倉商業学校で英語を教えつつ『明星』などに詩を発表。
*1904年(明治37年)31歳 第二詩集「夕潮」で認められる。
*1906年(明治39年)33歳 初の小説「芸者小竹」、評論「神秘的半獣主義」を発表する。夏休み、戯曲を書くため日光の温泉に滞在中、芸者吉弥と痴情に耽る(「耽溺」)
*1908年(明治41年)35歳 父が死去し旅館日の出館を引き継ぐ。紀州から上京した増田しも江が上京し、これを愛人とする。しも江はいざこざの中で毒を飲むが助かる(「毒薬を飲む女」)
*1909年(明治42年)36歳 「耽溺」を発表し、自然主義の作家として認められる。北海道へ渡るが、蟹缶詰製造業はうまく行かず、樺太、北海道を転々とし、あとから追ってきたしも江と心中し損ない、上京中にしも江と別れる。この体験が「泡鳴五部作」(「発展」「毒薬を飲む女」「放浪」「断橋」「憑き物」)に反映する。帰京後、女権運動をしていた遠藤清子を訪ね、同棲する。
*1910年(明治43年)37歳 自伝小説「放浪」を刊行する。「毎日電報」に続編「断橋」を連載(この間東京日日新聞となる)。
*1911年(明治44年)38歳 「大阪新報」に入社し箕面線池田に清子と住む。自伝小説の冒頭に来るべき「発展」を連載。清子は創刊された『青鞜』に参加し岩野清子と名乗る。
*1912年(明治45・大正元年)39歳 幸子と正式に離婚。刊行した『発展』が発売禁止となり、「朝日新聞」紙上に抗議文を掲げる。大阪新報を退社して帰京。養蜂に熱中する。
*1913年(大正2年)40歳 清子と正式に結婚。
*1915年(大正4年)42歳 プルターク『英雄伝』翻訳のため雇った筆記者蒲原英枝と関係ができ、清子と別居し、世間から轟々たる非難を浴び、反論する。清子に訴えられ反訴するが敗訴。
*1917年(大正6年)44歳 友人たちの斡旋で清子と協議離婚。
*英枝が中心となり末日会を主催し毎月万世橋ミカドで開く。田中純久米正雄吉井勇谷崎精二加能作次郎らが集う。
*1920年(大正9年)47歳 腸チフスを病み東京帝国大学医学部附属病院に入院中、リンゴを食べたところ大腸穿孔を起こし死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「岩野泡鳴」の詳細全文を読む




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