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岸 惠子(きし けいこ、1932年8月11日 - )は、女優・文筆家。岸恵子の表記もある。身長161cm。体重47kg。舞プロモーション所属。 ==人物・来歴 == 神奈川県横浜市神奈川区生まれ。1945年5月の横浜大空襲で被災。高校在学中に小牧バレエ団に通う。神奈川県立横浜平沼高等学校卒業。 もともとは作家志望で川端康成を耽読した。高校時代に観た『美女と野獣』に魅せられ、映画に興味を持ち、田中敦子(小園蓉子)と松竹大船撮影所を見学するうちに、吉村公三郎にスカウトされ〔『週刊AERA』1994年10月10日号 P.55〕、断ったが後に「本物の女学生が欲しいと頼まれて1本だけの約束で、1951年に大学入学までという条件で松竹に入社し、映画『我が家は楽し』でデビューするがヒットしてそのまま女優になった。 1952年には『坊ちゃん重役』で鶴田浩二と佐田啓二の相手役を務める。5月、松竹の看板スターであった鶴田が、戦後のスタープロ第1号となる新生プロを設立して独立。第1作として、新東宝配給『弥太郎笠』の制作にあたり、鶴田の相手役のヒロインとして岸にオファーを出すが、松竹は拒否したため岸は辞表を出す。結局松竹が折れて、岸は映画に出演。続いて、新生プロの『ハワイの夜』でも鶴田と共演しヒットとなる。この頃、鶴田との恋愛関係が報道されたが、松竹に強引に別れさせられた。 1953年から1954年にかけて映画『君の名は』3部作がヒットする。以降、松竹の看板女優として絶大な人気を誇った。一方1954年には有馬稲子、久我美子とともに「文芸プロダクションにんじんくらぶ」を設立した。 1956年、フランス・日本合作映画『忘れえぬ慕情』に出演。1957年、『忘れえぬ慕情』の撮影がきっかけで、フランス人の映画監督イヴ・シャンピと結婚〔『歩いて行く二人』によれば、『忘れえぬ慕情』のヒットでどこへ行っても「ノリコ!」と呼ばれるのが嫌だったし、シャンピとも英語で話していたので一日8時間くらいフランス語の勉強をしたという。下層の人々からも学んでいて首相官邸に招かれた時にそのまま使って夫を赤面させたという。〕。挙式はフランスで、川端康成が立会人となった。以降、パリに居を構え、フランスと日本を往復しながら女優を続け、「空飛ぶマダム」と言われた。この頃に、ジャン=ポール・サルトル、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、アンドレ・マルロー、ジャン・コクトーらと親交を持つ。また1963年には1人娘のデルフィーヌ=麻衣子・シャンピ (Delphine Ciampi) を出産した。しかし1975年、イヴ・シャンピと離婚〔『歩いて行く二人』では仕事をしすぎて不在が多かったことが原因だという。〕。娘の親権は岸が持った。 数多くの巨匠名匠の作品に主演を続けてきたが、とりわけ市川崑監督とのコンビは40年に及ぶ。日本の映画女優が通常大きな役につきにくくなる40代後半から60代後半にかけても市川作品にはしばしば主演や準主演で招かれ、女優人生後期の大きな成果をともにした。市川の葬儀においては、「細雪」出演に際し市川から直接パリに電話があり、山本富士子の代役であること、「あんたはミスキャストもいいところ」だが「仕方なしにお願いする」とポンポン毒舌を吐かれながら即答で引き受けたエピソードを披瀝、強い信頼で結ばれた関係を覗かせた。 1996年、国連人口基金親善大使に任命された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岸惠子」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Keiko Kishi 」があります。 スポンサード リンク
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