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岸本辰雄(きしもと たつお、1851年11月13日(嘉永4年10月19日) - 1912年(明治45年)4月5日)は日本の法学者。明治大学の創設者。 == 人物 == 因幡国南本寺町(現在の鳥取市)に 鳥取藩士作事方下吟味役 岸本平次郎尚義 の三男として生まれる。 幼名、辰三郎。当初 藩校「尚徳館」 で蘭式兵法を修める〔 一橋論叢 第八十巻第三号(2)「岸本辰雄の自然法論」P.278~ 1978.9.1 一橋大学機関リポジトリ 向井健 〕。 戊辰戦争に従軍後、1869年 箕作塾 に入門。翌1870年 貢進生として鳥取藩の推薦を受け、大学南校(後の東京大学) に入学。1872年 新設の司法省明法寮(後に司法省法学校) に第一期生として入学。ジョルジュ・ブスケ〔ジョルジュ・ブスケ ― 最初に来日したフランス人法律家 ― 」 明治大学法学部教授 村上一博 /日本近代法史 〕、ボアソナードら にフランス法を学び 1876年卒業。同年 選ばれて 宮城浩蔵 らとともに フランスに留学。パリ法科大学で フランス法律学士の学位 を取得〔明治大学創立者 岸本辰雄先生墓碑〕。1880年に帰国後、判事任官、東京大学法学部講師、太政官御用掛等〔明治大学創立者岸本辰雄展 解説シート1 〕〔 一橋論叢 第八十巻第三号(2)「岸本辰雄の自然法論」P.279~ 1978.9.1 一橋大学機関リポジトリ 向井健 〕。 判事の傍ら 1881年(明治14年)1月17日、有楽町数寄屋橋の 旧島原藩上屋敷 (松平主殿頭家(とのものかみけ)旧邸、現在の千代田区有楽町数寄屋橋交差点そば)〔 明治大学発祥の地 〕 において、宮城浩蔵、矢代操 らとともに 明治大学 の前身である 明治法律学校 を創設、初代校長となる。岸本は法学全般に通じていたが、宮城浩蔵 が刑事法を担当したのに対し、矢代操 と分担して主に民事法を担当。「権利自由」、「独立自治」 の建学理念 を生み 明治大学 発展の礎を築く。 この間 法制局判事、法制局参事官、司法省参事官、大審院判事等 を歴任。1889年には地元の鳥取県から第1回衆議院議員総選挙に立候補するが、すぐに辞退している。 1893年に弁護士登録。1897年東京弁護士会長。1905年法学博士となる。商法編纂委員、会社法編纂委員、破産法編纂委員、民商法施行調委員、法典調査会委員 などを務める〔 一橋論叢 第八十巻第三号(2)「岸本辰雄の自然法論」P.282~ 1978.9.1 一橋大学機関リポジトリ 向井健 〕。 著書 に 「仏国民法売買篇講義」、「仏国商事会社法講義」、「仏国法典改正論」、「法学通論」、「帝国憲法要領」、「民法財産取得篇講義」、「民法人事篇講義」、「民法正義」、「商法講義」、「商法正義」 など 多数 がある〔〕〔仏国商事会社法講義 〕〔〕〔帝国憲法要領 〕〔民法正義 〕〔商法講義 〕〔明治大学創立百周年記念学術叢書 〕〔〔 岸本辰雄論文選集 / 明治大学社会科学研究所叢書 / 明治大学法学部教授 村上一博 / 日本経済評論社/2008.10 〕〔 一橋論叢 第八十巻第三号(2)「岸本辰雄の自然法論」P.283~ 1978.9.1 一橋大学機関リポジトリ 向井健 〕。 1912年(明治45年)4月、市電で 明治大学 へ向かう途中に脳溢血で倒れ死去。墓所は谷中霊園乙4号9側 明治大学 駿河台キャンパスの リバティタワー23階に 「岸本辰雄記念ホール」 がある。またアカデミーコモン地下1階の大学史資料センター大学史展示室では、岸本ら3人の創立者の業績などを紹介する。出身地鳥取の藩校 「尚徳館」 跡地には、2006年 胸像 が建立される〔明大創立者・岸本辰雄 出身地の縁で幅広く交流 /東京新聞 〕〔明治大学 創立者出身地との連携 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岸本辰雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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