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岸田俊子 : ミニ英和和英辞書
岸田俊子[きし]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [きし]
 【名詞】 1. bank 2. coast 3. shore 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [じゅん]
 【名詞】 1. excellence 2. genius
: [こ, ね]
 (n) first sign of Chinese zodiac (The Rat, 11p.m.-1a.m., north, November)

岸田俊子 ( リダイレクト:中島湘煙 ) : ウィキペディア日本語版
中島湘煙[なかじま しょうえん]
中島 湘煙(なかじま しょうえん、旧姓名:岸田俊子、女性、文久3年12月5日1864年1月13日) - 明治34年(1901年5月25日)は明治時代の女権拡張運動家作家である。土佐国(現在の高知県)出身の神奈川県県令中島信行の後妻となり、活動を展開した。
== 年譜 ==

* 1863年 12月5日(旧暦)、現在の京都府に生まれる。
* 1877年 京都府女子師範学校に入学したが間もなく病気のため退学した。
* 1879年 槙村正直山岡鉄舟の推挙で宮中に文事御用掛として出仕し、皇后(後の昭憲皇太后)に漢学を進講する。
 *※出仕した時期は1878年とする説もある。
* 1881年 秋に御用掛を辞め、各地を遊歴する。その際、高知で自由党員の坂崎紫瀾宮崎夢柳を知った。
* 1882年 1月、京都に戻る。
 *同年4月、中島信行らの日本立憲政党の大阪での演説会で「婦女の道」の題で演説。以後1884年まで政治演説に従う。
* 1883年 10月、滋賀県大津での演説後拘引され入獄する。
* 1884年 1月、上京。
 *同年5月、星亨主宰の新聞『自由燈(じゆうのともしび)』に論説を発表する。
* 1885年 中島信行とともに受洗する。
* 1886年 この頃中島家に入る。巌本善治主宰の『女学雑誌』に湘煙の筆名で論説を発表する。自宅で塾を開く。
* 1887年 7月、翻案『善悪の岐(ふたみち)』を粧園女史の筆名で『女学雑誌』に発表。
 *同年9月頃、新栄女学校の和漢学科主任になる。
 *同年12月、保安条例により信行とともに東京を退去し、横浜に移る。
* 1888年 1月、『女学雑誌』に漢詩を発表する。
 *同年3月、神奈川県久良岐郡戸太町太田(現:横浜市南区南太田町)に移住。
 *同年5月頃、フェリス和英女学校名誉教授になる。
* 1889年 2月、小説『山間の名花』を『都の花』に発表する。
* 1892年 11月、イタリア公使になった信行とともにローマに出発する。
* 1893年 9月、病気のため信行とともに帰国する。
* 1897年 1月、小説『一沈一浮』を『文芸倶楽部』に発表する。
* 1898年 11月、神奈川県大磯町に転居し、夫婦ともに療養する。
* 1899年 1月、随筆・日記『大磯だより』を1900年3月まで『女学雑誌』に発表する。
 * 同年3月26日、信行が肺結核のため54歳(数え年)で逝去する。
* 1901年 5月25日午後1時15分に肺結核のため39(数え年)で逝去する。法号は葆光院殿月洲湘烟大姉。遺骨は大磯の大運寺に埋葬される。
* 1902年 3月、石川栄司藤生てい(藤生貞子)編の遺稿集『湘烟日記』が育成会より刊行される。




抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「中島湘煙」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Toshiko Kishida 」があります。




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