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岸田 國士(きしだ くにお、1890年(明治23年)11月2日 - 1954年(昭和29年)3月5日)は、日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。 代表作に、戯曲『牛山ホテル』、『チロルの秋』、小説『暖流』、『双面神』など。 妹の勝伸枝は作家で、翻訳家・延原謙の妻。長女は童話作家の岸田衿子、次女は女優の岸田今日子)、甥に俳優の岸田森がいる。 「ゼンマイの戯れ」なる映画脚本もある。 == 経歴 == 東京市四谷区(現・東京都新宿区)に和歌山県出身の陸軍軍人岸田庄蔵の長男として生まれる。岸田家は旧紀州藩士の家系。 陸軍士官学校を経て少尉に任官、久留米の第48歩兵連隊に配属される。 文学への思い止み難く、父の勘当を受けながらも軍籍を離れ、28歳で東京帝国大学文科大学に選科生として入学。フランス文学や近代演劇を学び、鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄・関根秀雄らと親交をむすぶ。著名な訳書はジュール・ルナール『にんじん』、『博物誌』、『ぶどう畑のぶどう作り』などで、今日でも重版されている。 仏領インドシナを経由してパリに遊学、ジャック・コポーが主宰する小劇場ヴィユ・コロンビエ座などに出入りし、当時フランスで盛んになっていた演劇純粋化運動に接していたが、1922年の父の死去により、翌年帰国。 1932年新設された明治大学文藝科教授となる。1937年に顧問を務めていた築地座を解消し、新たに文学座を岩田豊雄・久保田万太郎らと創設する〔。 1940年から1942年まで大政翼賛会文化部長を務め〔、太平洋戦争後の1947年にGHQにより公職追放となる。 1954年、文学座の上演『どん底』(原作マクシム・ゴーリキー)の演出に携わっていたが、3月、舞台稽古中に脳卒中に襲われ病院に運ばれたが翌日死去。享年63。文字通り「演劇」に殉じた人生だった。 == 年譜 == *1890年(0歳) - 11月に東京四谷右京町で近衛砲兵連隊付大尉、岸田庄藏・楠子の長男として生まれる。 *1897年(7歳) - 東京 四谷尋常小學校に入学。 *1899年(9歳) - 父の転勤に伴い、名古屋市棣棠尋常小學校(現・名古屋市立山吹小学校)へ転校。 *1902年(12歳) - 名古屋第二高等小學校に入学。 *1904年(14歳) - 9月、名古屋陸軍地方幼年學校に入学。 *1907年(17歳) - 9月、東京にある陸軍中央幼年学校に進学するが、軍隊生活・軍人の気風に反発を覚える。この頃より、フランス文学に興味を持つようになる。 *1910年(20歳) - 6月、幼年学校を卒業し、士官候補生として久留米歩兵第48連隊に配属となる。12月、陸軍士官学校へ進学する。 *1912年(22歳) - 6月、士官学校を卒業。7月、見習士官として久留米連隊に復帰。12月、少尉に任官。 *1914年(24歳) - 11月、休職願を出して、上京。 *1917年(27歳) - 4月、東京帝国大学仏文科選科に入学。鈴木信太郎・辰野隆・豊島与志雄らと知悉を得る。 *1919年(29歳) - 8月、渡仏を計画し、貨物船にて神戸より台湾へ渡航。高雄から香港へ渡る。同地にて三井物産仏印出張所長付通訳のを得、ベトナム北部の港湾都市ハイフォンに赴任、そこで3ヵ月を過ごした後、マルセイユへ向けて渡航。 *1920年(30歳) - 1月、マルセイユに到着後、パリへ移動。生活のため、はじめ日本大使館、後に国際連盟事務局に嘱託として勤務。フランス演劇史を研究する。 *1922年(32歳) - 12月、父の訃報を受け、帰国準備にかかる。 *1923年(33歳) - 7月、帰国。中野野方町に住む。8月、豊島与志雄に処女戯曲『古い玩具』を見せ、意見を求め山本有三に紹介される。 *1924年(34歳) - 山本有三編集の「演劇新潮」3月号に『古い玩具』を発表し、注目される。戯曲『チロルの秋』を「演劇新潮」9月号に発表。 *1925年(35歳) - 戯曲『軌道』を「演劇新潮」新年号、戯曲『命を弄ぶ男ふたり』を「演劇新潮」2月号、戯曲『ぶらんこ』を「演劇新潮」4月号、戯曲『紙風船』を「文藝春秋」5月号に発表。 *1927年(37歳)- 鳥取県米子市出身の村川秋子〔鳥取県郷土人物文献データベース--きしだあきこ 〕と結婚。 *1929年(39歳) - 戯曲『牛山ホテル』を「中央公論」新年号に発表。 *1930年(40歳) - 戯曲『ママ先生とその夫』を「改造」10月号に発表。娘・岸田今日子が生まれる。 *1931年(41歳) - 戯曲『淺間山』を「改造」7月号に発表。 *1935年(45歳) - 戯曲『歳月』を「改造」4月号に発表。 *1936年(46歳) - 長編小説『落葉日記』を「婦人公論」6月号より連載。 *1937年(47歳) - 9月6日、久保田万太郎、岩田豊雄と共に劇団文学座を結成する。10月、文藝春秋の特派員となり北支戦線視察に赴く。 *1938年(48歳) - 3月、明治大学文芸科長となり、演劇・映画科を新設する。 *1940年(50歳) - 10月、明治大学文芸科長を辞し、大政翼賛会文化部長に就任する。 *1942年(52歳) - 7月、大政翼賛会の官僚化を不満とし、組織改編を機に、文化部長を辞任する。 *1949年(59歳) - 3月、次女岸田今日子、文学座研究所に入所。戯曲『女人渇仰』を「文學界」9月号に発表。 *1950年(60歳) -「演劇」と「文学」との立体化を目指し『雲の会』を結成。三島由紀夫、福田恒存、木下順二、千田是也、小林秀雄らが参加。この会がきっかけになって、椎名麟三、石川淳、中村光夫、大岡昇平、石原慎太郎、武田泰淳といった小説家が戯曲を書き、舞台化された。 *1951年(61歳) - 戯曲『カライ博士の臨終』を「世界」新年号に発表。 *1952年(62歳) - 3月、小説執筆中に脳神経麻痺を引起し、東大病院沖中内科に入院。5月、退院。 *1954年(64歳) - 3月4日、神田一ツ橋講堂で舞台稽古を監督中に、再び脳卒中で倒れる。東大病院沖中内科にて手当てを受けたが、翌日5日午前6時32分、永眠。8日、文学座にて無宗教による告別式が執り行われた。 *没後 - 1954年9月より『岸田國士全集』(全10巻、新潮社)が出され翌55年に完結した。1956年に『岸田国士長編小説全集』(全12巻、鱒書房)が刊行された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岸田國士」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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