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岸田 辰彌(きしだ たつや、1892年9月 - 1944年10月16日)は、宝塚歌劇団の演出家、オペラ歌手。東京市銀座生まれ。 宝塚歌劇団で日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。父親はジャーナリストの岸田吟香、兄は洋画家の岸田劉生。妻は宝塚歌劇のスターだった浦野まつほ。 == 略歴 == 1892年(明治25年)、明治の先覚者、岸田吟香の五男として東京市銀座に生まれる。すぐ上の兄が「麗子像」で有名な洋画家の岸田劉生。7男5女の兄弟の中で、2人は特に仲が良かったため、交流が深く、劉生作の肖像画が残っている(岸田辰弥之像〔日本近代の洋画 〕:1929年(昭和4年)作、劉生が日本で描いた最後の肖像画)。 岸田は、1919年(大正8年)小林一三が国民劇創設のため作った「男子養成会」の創設メンバー・男子専科生第2期生として宝塚入り(同期には後輩演出家の白井鐵造もいた)。初期の宝塚歌劇において非常に重要な作家であり、多才な人物として知られる。 浅草オペラで活躍後、宝塚歌劇団の演出家になり、一年余の欧米の劇場視察から帰国後の1927年(昭和2年)、日本初のレビュー『モン・パリ』を作った。この作品は、レビューの本場である海外を視察した岸田自身をモデルとした主人公が、パリや外国の風景を再現するという内容のレビューである。幕なし16場・登場人物延べ数百人・上演時間1時間30分という、それまでの常識を覆すもので、少人数・短時間の公演をしてきた宝塚歌劇団にとって考えられないほどの大作、大変大掛かりなものだった。そして、今や宝塚のシンボルとなった大階段やラインダンスの登場など、「宝塚歌劇スタイル」を確立した記念すべき作品である。この『モン・パリ』は宝塚歌劇団初のロングランとなり、主題歌「うるわしの思い出 モン・パリ」(岸田作詞)のレコードは、通信手段の発達していない当時で約10万枚を売り上げ、大ヒットを記録した〔第3章 少女歌劇と宝塚新温泉 〕。 1938年、星組公演『満州より北支へ』が最後の作品となった。その後1944年に52歳で逝去。 ==エピソード== *日米開戦後、レビュー視察などで西洋をよく知る岸田は息子に向かって「日本が負ける。日本はアメリカの力を知らなさすぎる。戦争は絶対にいかん」と断言したという。晩年は宝塚歌劇に迫り来る軍国主義に創作意欲はなくなり、「今は一行も書けない。戦争の脚本は書けない」と息子に打ち明け、家にこもり酒に溺れ、終戦の前年に亡くなった。無念にも最後の作品である『満州より北支へ』は国策物であった〔朝日新聞大阪本社発行 朝日新聞「20世紀文化事件簿・岸田辰弥の『モン・パリ』」 1998年9月17日付〕。 *宝塚歌劇団では岸田の偉業を称え、『モン・パリ』初演の初日(1927年9月1日)にちなんで毎年9月1日を「レビュー記念日」とし、通常の公演終了後にイベント(ミニコンサート)が行われていた。ちょうど80年後に当たる2007年の開催をもってこのイベントは終了した〔公演について 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岸田辰彌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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