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岸連山(きしれんざん、文化元年(1804年) - 安政6年〔『京都御所障壁画』展図録182頁や『京(みやこ)の絵師は百花繚乱』展図録277頁では、明治4年(1871年)没と記されている。〕11月14日(1859年12月7日))は、江戸時代後期の岸派の絵師。京都生まれ。旧姓、青木。幼名を徳次郎。のちに昌徳、徳などと名乗る。通称・文進。字は士道、士進。号は萬象楼。 == 経歴 == 文化元年、青木新助の子として京に生まれる。岸駒、岸良に師事する。岸駒の長女で岸良の妻・貞の先婿との娘・晴(春)と結婚、婿養子となり第三代岸派を継承した。文政6年(1823年)以降は父祖と同様、有栖川宮家に仕えた。安政2年(1855年)京都御所障壁画制作では、御常御殿申口之間、御学問所雁之間・迎春南之間などを担当し、岸派の中では二代目の岸岱に次ぐ大きな仕事をしており、岸派の三代目に位置していたことが窺える。他に光明寺や島原角屋、岸派とのゆかりが深い京都市北区天寧寺などに、作品の所蔵が確認されている。 中島来章・横山清暉・塩川文麟らと共に、幕末画壇の「平安四名家」と評された。画風初期は、装飾的な画風を特徴としたが、晩年は四条派の影響を受け、身近な花鳥や鳥獣を、淡彩を生かしつつ墨を駆使して描く温和な画風に変化した。連山は、岸駒の個性的表現から近代的な写生技法へ転換し、次代の竹堂へと続く岸派の近代化の契機となった絵師といえる。 墓所は上京区の本禅寺。連山には九岳という息子がいたが後継者には選ばず、娘素子を弟子の岸竹堂と結婚させて跡を継がせた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「岸連山」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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