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峰岸 徹(みねぎし とおる、1943年7月17日 - 2008年10月11日)は、日本の俳優である。本名は峰岸 知夫(みねぎし ともお)。東京市出身。暁星中・高卒業後、日本大学藝術学部演劇学科中退。元妻は女優の藍とも子、血液型はO型。 == 来歴・人物 == 東京市銀座生まれで泰明小学校3年生の時に日本橋浜町へ引っ越す。銀座で料亭を営む母に育てられた知夫は虚弱体質の少年であったが、ジェームズ・ディーンと石原裕次郎に憧れ俳優を志すようになる。幼少期より落語に魅せられ母によく人形町末広亭など方々の寄席へ連れて行ってもらう。1962年に峰健二の芸名で東宝映画『高校生と女教師・非情の青春』でデビュー。当時、六本木野獣会(渡辺プロダクションの渡辺晋社長が当時話題を呼んだ六本木族にならって若手スターの話題作りのためにプロデュースした集団)に属し日本橋浜町の自宅には頻繁にメンバーの面々が集うほど慕われた存在であった。その風貌から和製ジェームス・ディーンと呼ばれた赤木圭一郎の生き写しとも言われ、NHKの高視聴率ドラマ『若い季節』や東宝映画に出演する。 しかし、この頃は、その端正な二枚目ぶりが目立つあまり、演技力についての評価も思ったほどではなく、峰岸自身も悩んでいたという。 俳優座養成所第16期生(同期には太地喜和子、河原崎建三、剣持伴紀)、文学座研究生を経て1968年に田宮二郎に続く看板スターにと目論む大映と契約、芸名を峰岸隆之介に改める。同年、製作者協会新人賞を受賞。1975年より、芸名を峰岸徹とした。名前の読みは、主演作『哀愁のサーキット』を演出した映画監督の村川透に由来する。1977年には女優の藍とも子と結婚するがその後離婚。 渋みあふれる貴重なバイプレーヤーとして数多くのテレビドラマ、映画に出演。テレビドラマでは、TBSの金曜ドラマ『高校教師』における実の娘と近親相姦を重ねる父親役が評判を呼んだ。また、大河ドラマ『風と雲と虹と』における極悪非道な演技も印象深い。映画では大林宣彦監督作品の常連俳優としても知られ、峰岸のロマンティックな容姿と演技は非日常的な大林ワールドに上手く生かされた。をまた『ゴジラvsビオランテ』の権藤吾郎役は評価が高く、ゴジラ映画ファンのみならず、アメリカでもその演技は絶賛された。 一方でバラエティ番組ではとぼけたキャラクターでオヤジギャグをとばし、共演者から突っ込まれる事も。ダウンタウンの浜田雅功が司会を務める番組によく出演していた。また、ものまね王座決定戦では、審査員としても長年出演していた。 また、1986年4月8日に投身自殺をしたアイドル歌手の岡田有希子の交際相手だったとの報道があり、時の人となった。岡田の自殺当日夜、仕事先のTBSにて峰岸が記者に囲まれ急遽会見し「正直ものすごいショックです」「僕はアニキのつもりだったが、彼女にはそれ以上のプラスアルファがあったのかも知れない」とコメント。 近年の趣味はトライアスロンで、実際にレースにも参加していた。2001年には著書『トライアスロン200キロへの挑戦〜突然ですが、宮古島に行ってきます!』(株式会社ランナーズ刊)を出版、またその宮古島の美しい自然に魅せられたことから自然破壊などの環境問題にも関心を寄せていた。 晩年には幼少の頃より大好きだった落語へ興じ、新宿末広亭の舞台でそばの噺を披露した。 2008年4月、元々悩みの種であった椎間板ヘルニアから来る腰痛の症状が悪化した事を理由として6月に出演が決まっていた舞台公演からの降板を発表していた。実際には3月に腰痛の手術準備で検査入院した際に肺癌であることが判明、それが腰にまで転移しておりすでに切除手術が出来ない状態との告知を医師から受け入院、5月から6月に抗がん剤投与、放射線治療などの闘病をしていた事が真の降板理由であった事が7月に公表された。同年8月に仕事復帰したものの、10月11日23時32分、死去、。生前から公私共に親しかった映画監督の大林宣彦が手掛けた映画には数多く出演し、2008年11月から公開された大林監督の作品『その日のまえに』が遺作となった。なお最後に公開されたのが「新宿インシデント」だが、撮影順では「その日のまえに」(2008年11月公開)が最後である。 また、逝去の際、既に公開されており、国内外で数々の賞を受賞した映画『おくりびと』でも象徴的な役柄(死者の役)を演じており、本木雅弘を始めとする共演者からもコメントが発表された。 最後の所属事務所はアクトレインクラブ 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「峰岸徹」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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