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峰崎修豪 : ミニ英和和英辞書
峰崎修豪[みねざき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [みね]
 【名詞】 1. peak 2. ridge 
: [みさき]
 (n) cape (on coast)
: [ごう]
 【名詞】 1. fine feathers 2. writing brush 3. a little

峰崎修豪 ( リダイレクト:三杉磯拓也 ) : ウィキペディア日本語版
三杉磯拓也[みすぎいそ たくや]
三杉磯 拓也(みすぎいそ たくや、1956年(昭和31年)5月11日- )は、青森県八戸市出身で、放駒部屋(入門時は花籠部屋)に所属した大相撲力士。最高位は西前頭2枚目(1979年1月場所、1982年3月場所)。本名は上沢 秀則(かみさわ ひでのり)。現役時代の体格は187cm、126kg。得意手は左四つ、突っ張り、寄り、上手投げ突き落とし
現在は、年寄峰崎を名乗り、峰崎部屋を営んでいる。
== 来歴 ==
常盤山親方(元関脇若秩父)の勧誘を受けて、中学校在学中に花籠部屋へ入門。1971年(昭和46年)3月、故郷・青森県八戸市立大館中学校から部屋近くの杉並区立阿佐ヶ谷中学校に転校し(当時は、中学在学中の入門が認められていた)、同年3月場所で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、本名と同じ「上沢」。
胴長で下半身の発達した相撲向きの体型に加え、稽古熱心さで早くから注目された。
順調に出世し、1976年(昭和51年)11月場所で新十両に昇進。そして、1977年(昭和52年)11月場所にて、21歳で新入幕を果たした。
当時は蔵間出羽の花と並ぶ美男幕内力士として人気があり、西前頭3枚目の地位で迎えた1979年(昭和54年)9月場所では、北の湖三重ノ海から2日連続で金星を獲得している(ただし、金星はその2個のみで終わってしまった)。
突っ張って左四つからの寄りや投げに威力があったが、消極的な性格が災いしてか、幕内上位ではなかなか勝てなかった。また下位での大勝ちもなく、結局三賞三役とも手が届かなかった。
その後、1981年(昭和56年)5月場所から、「東洋(あずまなだ)」と改名。1983年(昭和58年)11月場所では十両へ陥落し、1984年(昭和59年)3月場所より、四股名を「三杉磯」へと戻し、1985年(昭和60年)9月場所で再入幕を果たした。同年12月には、現役引退後に花籠部屋を継いでいた元兄弟子・輪島(元横綱)の不祥事に伴い花籠部屋が消滅したため、同門の放駒部屋へ移籍した。
花籠部屋消滅を境に負け越し続きとなり、1986年(昭和61年)5月場所では5勝10敗と大敗して、十両へ陥落。以後は幕内復帰ならず、西十両10枚目の地位で1勝14敗と大敗した同年9月場所を最後に30歳で引退し、年寄・峰崎を襲名した。
その後は放駒部屋付きの親方として後進の指導に当たっていたが、1988年(昭和63年)12月に同部屋から分家独立して、練馬区峰崎部屋を興した(練馬区では初の相撲部屋)。
間もなく、実弟である上沢秀文(かみさわ しゅうぶん、1970年(昭和45年)9月6日生まれ)が八戸工業大学附属第一高校を中退して、同部屋へ入門。「秋津風(あきつかぜ)」や「千年岩(ちとせいわ)」など幾度も改名しつつ関取昇進を目指した弟・秀文であったが、結果的には三段目までの昇進に留まり、2000年(平成12年)3月場所後に引退した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「三杉磯拓也」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Misugiiso Takuya 」があります。




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