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島原 幸雄(しまばら ゆきお、1933年4月21日 - 1995年1月6日〔西日本新聞文化部編 『昭和の尋ね人 - アウトサイダー列伝』(不知火書房)、1999年、P130。〕)は、愛媛県出身のプロ野球選手(投手)。西鉄ライオンズのエース投手として、1956年から1958年の日本一3連覇に貢献した。 == 来歴・人物 == 1952年に松山東高等学校中退後、西鉄ライオンズの重松通雄二軍監督を通じて入団テストを受け合格。プロ野球選手としてデビューする。初年度より一軍で登板しているが、4年間は一軍に定着できなかった。初めは本格派のオーバースローで、球は速かったがコントロールに難があった。あとから入団した河村久文、西村貞朗らに追い抜かれ、一軍で起用されても「オレ、ダメなんだな」と劣等感に悩まされた。他のウエスタン・リーグチームの所在地の関係で西鉄の二軍合宿所は堺市浜寺に置かれ、その土蔵のような建物に島原は暮らしていた。 1953年4勝6敗と負け越していたが、オフに高橋ユニオンズに移籍した武末悉昌のエースナンバー18番を貰うと、島原は「恥ずかしい」を連発し、内気になっていた。4年目の1955年、石本秀一コーチの進言でサイドスローに変えた〔河村英文『西鉄ライオンズ-最強球団の内幕』、葦書房、1983年、P270-272〕。この年通算9勝目を挙げたが、年末に球団がノンプロ日鉄二瀬の強打者・寺田陽介を獲得する見返りに島原を日鉄に譲渡するというトレードの噂が流れた〔寺田は最終的に南海ホークスに入団。〕。この屈辱的なニュースが弱気な島原を奮起させた。 オフに郷里に帰ると、社会人バスケットボールチームのコーチをしていた実兄に頼んで一緒に練習し、走り込んだ。1956年のキャンプでは、足腰が出来上がっていたことで初日から速い球を投げる島原に、三原脩監督が「すごいじゃないか」と目を留めた。これがきっかけでオープン戦から積極的に起用された。 公式戦に入ってから調子は上昇し、4月中に9勝とそれまで4年分の勝ち星を一月でクリア。相手は東映フライヤーズ、大映スターズ、高橋ユニオンズの下位球団ばかりだったが、島原に自信をつけさせるための三原の計算だった。 1956年5月2日、大阪球場での対南海ホークス戦に先発し敗戦投手になったが「この打線に完投できた。オレも一人前の投手になった」と自信を持った。本来は器用な選手で、相手・球種によって腕の上げ方を変えると「一見バラバラな変則的フォームで打ちづらい」と打席に立つ打者たちは言った。 前半戦まで独走の16勝を記録し、6月には3試合連続(13日高橋戦、17日毎日戦、20日近鉄戦)完封勝利を記録〔週刊ベースボール、2011年6月27日号、P.95〕。オールスターにも選ばれて第1戦に先発すると勝利投手となった。この試合で三塁へのカバーに走った時に足腰をひねってしまった。チームメイトの中西太が「無理するなよ」と声をかけると「いいですよ。ボクは今まで月給泥棒。恩返しをさせてもらっているのだから、1年で潰れても本望です」と返答した逸話がある。 その後、当時のプロ野球新記録となる公式戦の半数の74試合に登板〔それまでの記録は朝日の林安夫が1942年に記録した71試合。〕。夏場にマウンドを守りきり、南海を僅差で破っての優勝に貢献した。最終的に25勝11敗という従来からは大きく飛躍した成績でこのシーズンを終え、最優秀投手に選出された。 1963年、彼を育てた石本秀一の勧めで広島カープに移籍したが、病気を理由に現役を引退した。 1994年12月28日、島原のいとこが愛媛県立中央病院から呼び出され、行ってみると、ベッドの上で横たわっている島原幸雄がいた。「嫌な病気に取り付かれた。もう長いことはない」とつぶやいたという。翌1995年1月6日に死去。61歳没〔西日本新聞文化部編 『昭和の尋ね人―アウトサイダー列伝』 不知火書房、1999年、P129-130。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島原幸雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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