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島岡 吉郎(しまおか きちろう、1911年6月4日 - 1989年4月11日)は元明治大学硬式野球部監督。 ラグビー部の北島忠治監督と共に、明治大学の名物監督として知られた人物。愛称は御大(島岡御大)。東京六大学リーグ戦優勝15回は、監督として歴代1位。 == 来歴・人物 == 長野県下伊那郡市田村(現・高森町)出身。松本商業(現松商学園)から捕手として誘いがあったが、朝鮮で働いていた鉄道技師の父から東京に出て大学に入学するよう勧められ、学資の仕送りを受け上京し東京小石川区の旧制豊山中学(現日本大学豊山高等学校)に入学した。 その後同校の物理学教師を殴る暴力事件で退学放校後、旧制東京中、荏原中、東京植民貿易中、帝京商業、その他保善商業や成城学園など〔「など」としたのは、その後は島岡自身も覚えていないと「御大-島岡吉郎物語」(近藤唯之・著)で語っているため。最初に入学し退学になった豊山中や東京中、東京殖民貿易中の思い出は同書で多く語っている。〕 を経て、明治大学政治経済学部予科入学。明治大学在学中は応援団長として活躍した。卒業後、証券会社勤務を経て、海軍特務機関員としてマカオに駐在。 1946年、明治高校(当時明治中学)野球部監督に就任。3度の甲子園出場を果たす(1950年・1951年選抜大会、1950年選手権大会)。 1952年かねてから助監督を務めていた明治大学野球部の監督に就任。大学当局の要請(双葉山を発掘した双川喜一専務理事(当時)という説がある)による首脳部人事であったが、応援団出身・野球未経験監督の就任は、大学当局と駿台倶楽部(明治大学野球部OB会)の対立や、部員の集団退部という事態を招くこととなる。 就任早々から部内の意識改革や設備の充実に着手し、就任4シーズン目となる1953年秋の東京六大学秋季リーグ戦において1942年春季以来の優勝を遂げ、明大に戦後初の天皇杯をもたらした。続く1954年春季リーグ戦にて連覇を達成し、翌1955年春季リーグ戦も制した。この年、戦後初となる海外遠征を台湾で行い、日本のスポーツ団体では初めて蒋介石と会見した。 1961年勇退し総監督に就任するが、1965年監督に復帰。1978年春季リーグ戦を最後に再び勇退するが、1980年大学創立100周年を控え三たび監督就任。創立100周年となる1981年の春季リーグ戦を優勝に導いた。 1980年代後半からは体調を崩したが、車椅子姿で指揮を執り続けた。1988年秋季リーグ戦を最後に監督を退き総監督に就任。練習中に食事を喉に詰まらせてしまったのが体調悪化の遠因といわれる。1989年4月11日、春季リーグ戦開幕直後に死去、享年77。「打倒早稲田」「打倒慶應」を旗印としていた島岡の死去は、リーグ開幕戦において明治が早稲田から勝ち点を挙げた翌日のことであった。 37年間にわたって明治大学野球部の指導的立場に就き、東京六大学リーグ戦優勝15回、全日本大学野球選手権大会優勝5回、明治神宮野球大会優勝2回、日本代表チームの監督も務め日米大学野球選手権大会優勝2回の記録を残した。 合宿生活で選手と同じ食生活を壮年期以後も継続した事で晩年は糖尿病を患いこれが寿命を縮ませる事になった。自宅に帰るのは正月と盆休みのみであったという。 没後、1991年に競技者表彰で野球殿堂入り。競技者表彰はプロ野球選手または審判などが選出されることが大半であり、島岡はプロ野球に関与しなかった者として初めて競技者表彰での殿堂入りとなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島岡吉郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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