翻訳と辞書
Words near each other
・ 島本町立第一幼稚園
・ 島本町立第三小学校
・ 島本町立第二中学校
・ 島本町立第二小学校
・ 島本町立第二幼稚園
・ 島本町立第四小学校
・ 島本真
・ 島本真衣
・ 島本義文
・ 島本虎三
島本融
・ 島本要
・ 島本講平
・ 島本里沙
・ 島本雄二
・ 島本須美
・ 島本駅
・ 島本高校
・ 島本高等学校
・ 島村


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

島本融 : ミニ英和和英辞書
島本融[しまもと とおる]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 

島本融 : ウィキペディア日本語版
島本融[しまもと とおる]
島本 融(しまもと とおる、1904年1月31日 - 1976年5月5日)は、日本の財務官僚、銀行家。北海道銀行初代頭取のほか、公正取引委員会委員や日本銀行政策委員会委員等の要職を歴任。また公益財団法人札幌交響楽団の前身である札幌市民交響楽団の設立に尽力するなど北海道の芸術文化の向上にも貢献した。
==人物・来歴 ==
京都府綴喜郡青谷村に生まれる。生家は酒造や宇治茶の販売を手掛ける素封家で、父は島本の生誕年に島本銀行を開業した〔『ほっかいどう百年物語 (第6集) 北海道の歴史を刻んだ人々』〕。
三高を経て、京大経済学部に入学する。在学中から将来は金融界に進もうと思い、また周囲からも島本銀行の跡取りとして期待されるも、金融恐慌の煽りを受け同行は経営破綻してしまう。そこで島本は内定していた大手銀行への就職を辞退し、大蔵省に入省する。入省後には理財局を振り出しに、各税務署署長、欧州駐在を経て戦後にはわが国経済の復興に向け奔走した〔。
1950年(昭和25年)11月、長沼弘毅大蔵事務次官から新設される北海道銀行初代頭取の就任を打診される。島本はその申し入れを驚きはしたものの、迷うことなく快諾した。またこれに三高、京大時代からの知己である藤野重夫も同道した〔朝鮮銀行庶務部長、閉鎖機関整理委員会常務委員を経て道銀常務。1965年 - 1967年同頭取。北海道テレビ会長等も歴任した。〕。
頭取就任後、島本が真っ先に取り掛かったことは人材の確保であったが、東京採用組と北海道採用組の間に軋轢が生じ東京採用組の数名が開業前に銀行を去ったほか、資本金集めにも難渋するなどしたため、道銀は想定よりも1か月遅れの1951年(昭和26年)3月開業した。営業開始後、道内各地から支店設置の要請が多数寄せられたため、同年12月までには37店を開設した他、1953年(昭和28年)までには拓銀から24店を譲り受けたこともあって、店舗ネットワークの整備は急速に進んだ〔「戦後地域金融を支えた人々(3) 『北海道銀行 島本融 地域とともに歩む意義と役割を貫く』 東京大学教授 伊藤正直」 『金融ジャーナル』〕。
島本は銀行経営に関しコミュニケーションを大切に合理主義に徹した。その一端として辞令や出勤簿を廃止したほか、昇進・昇格の際上司に礼を言うことや、盆暮れの贈答をやめるなど虚礼を廃止した。これら島本の提唱した「合理主義」と「積極経営」の下に道銀は1965年(昭和40年)3月には道内預金シェアは20%を超え、また1968年(昭和43年)には道内融資シェアも20%を超えるなど、高度経済成長期の半ばには地銀中位規模までに急成長を果たした〔〔。
1965年(昭和40年)、本店ビルである道銀ビルディングも竣工となったことや、店舗数も70店を超えたため、後事を藤野重夫に託し会長に退いた〔。
1976年(昭和51年)5月5日死去〔。北海道厚生年金会館で営まれた告別式には札響交響曲第3番『英雄』を奏でる中、道内外から多数の人々が参列した〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「島本融」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.