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島津 久光(しまづ ひさみつ)は、江戸時代末期から明治時代初期にかけての日本の政治家。幕末の薩摩藩における事実上の最高権力者で、公武合体運動を推進した。明治政府の内閣顧問、左大臣。重富島津家当主、のち玉里島津家初代当主。 位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。字は君輝、邦行。雅号は幼少時が徳洋、以後は大簡・双松・玩古道人・無志翁と号した。 島津家27代当主(薩摩藩10代藩主)島津斉興の五男。同28代当主(11代藩主)島津斉彬は異母兄、同29代当主(12代藩主)島津忠義は長男。次男・久治は宮之城家、四男・珍彦は重富家、五男・忠欽は今和泉家、と島津家の旧来の分家をそれぞれ相続した。曾孫に香淳皇后、玄孫に今上天皇がいる。 == 生涯 == === 若年期 === 文化14年(1817年)10月24日、薩摩国鹿児島郡(現鹿児島県鹿児島市)の鹿児島城において誕生する。生母は斉興の側室・お由羅の方。幼名は普之進(かねのしん)。文政元年(1818年)3月1日に種子島久道の養子となり、公子(藩主の子)の待遇を受ける〔『島津氏正統系図』では種子島氏の養子になった事実が省かれている。〕。 文政8年(1825年)3月13日に島津宗家へ復帰し、4月に又次郎と改称する。 同年11月1日、島津一門家筆頭の重富島津家の次期当主で叔父にあたる島津忠公の娘・千百子と婚姻し、同家の婿養子となる。これを機に鹿児島城から城下の重富邸へ移る。文政11年(1828年)2月19日に斉興が烏帽子親となり元服、忠教(ただゆき)の諱を授かる。天保7年(1836年)2月、千百子と婚礼の式を挙げる。天保10年(1839年)11月に重富家の家督を相続し、12月に通称を山城と改める。弘化4年(1847年)10月、通称を山城から周防へ改める。 斉興の後継の地位をめぐり、斉彬と忠教の兄弟それぞれを擁立する派閥が対立してお家騒動(お由羅騒動)に発展した結果、幕府の介入を招来し、嘉永4年(1851年)2月2日に斉興が隠退、斉彬が薩摩藩主となる。島津氏家督の座を争うかたちにはなったが、忠教自身は反斉彬派に担がれたという要素が強く、斉彬と忠教の個人的関係は一貫して悪くなかったとみられる〔安政5年(1858年)5月13日に幕府軍艦咸臨丸が鹿児島を訪問したおり、斉彬は勝海舟に忠教を紹介している。〕。また忠教は斉彬と同様、非常に学問好きであった。ただ、蘭学を好んだ斉彬と異なり、忠教は国学に通じていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津久光」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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