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島津 元久(しまづ もとひさ)は、南北朝時代から室町時代の武将、守護大名。大隅・日向・薩摩守護。島津氏第7代当主(奥州家第2代当主)。島津氏6代当主島津氏久の嫡男で、母は伊集院忠国の娘。久豊の兄。子に仲翁守邦。 至徳4年/元中4年(1387年)の父の死により奥州家を継ぐ。明徳4年(1393年)、従兄の総州家当主島津伊久・守久父子の仲介役をしたことで、伊久から薩摩守護職と島津氏家宝、更に領地の川辺郡(硫黄島を含む)を譲られた〔。また、日向庄内の支配を図って相良前頼と衝突、応永元年(1394年)に相良前頼と連携した九州探題今川了俊の4男尾崎貞兼に北郷久秀を討ち取られたが、前頼の戦死と了俊の九州探題解任で庄内の支配が確定した。しかし応永7年(1400年)、元久は養子としていた伊久三男の久照と伊久一族である夫人とを突然に離縁し〔、更に薩摩に清水城を作ったことにより総州家と不仲になった。 応永8年(1401年)、国人の渋谷五氏のうち鶴田氏を除く四氏が伊久に味方したため、奥州家・総州家は絶縁状態になり、同年の鶴田合戦で元久側が敗れると鶴田氏と共に菱刈(現・鹿児島県伊佐市菱刈)に逃亡するなどした。幕府は伊久側についたが勘合貿易等への影響を恐れ〔、応永11年(1404年)に幕府の調停により両家は和睦した。同年、元久は大隅・日向守護となった。応永16年(1409年)には薩摩の守護も務めるようになり、領国内の国人の被官化を図って支配力を強め、明・李氏朝鮮・琉球と貿易を盛んに行なった。また、福昌寺、鹿児島神社の社殿建立も行った。 応永18年(1411年)、出陣中に病没。天授5年/永和5年(1379年)に生まれた子の仲翁守邦は出家して福昌寺の3代目住持になったため、弟の久豊と甥の伊集院煕久が後継者争いを起こした。 奥州家が勝利したことにより、本拠地は大隅から鹿児島に移り、鹿児島が島津氏の城下町として栄えていくこととなる。 == 参考文献 == *国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 7 しな - しん』吉川弘文館、1986年。 *都城市史編さん委員会編『都城市史 通史編 中世・近世』都城市、2005年 *『島津歴代略記』(島津顕彰会 1985年) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津元久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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