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島津 忠俊(しまづ ただとし、永正5年(1508年) - 天文18年10月27日(1549年11月16日))は戦国時代の薩摩国島津氏の庶流。通称は三郎四郎、受領名は式部大輔、摂津介。父は島津忠誉、母は今給黎久慶の娘。妻は樺山広久の娘。子は喜入季久、喜入忠道、喜入久続。 祖は島津氏宗家9代・忠国の7男である忠弘で、忠弘が喜入(現・鹿児島市喜入町)を領したのが始まり。忠俊は喜入氏の4代目であるが、喜入姓を名乗り始めるのは子の季久以降である。 天文8年(1539年)3月、島津貴久が薩州家島津実久の神前城(玉林城とも)を奪取した際に、頴娃小四郎(頴娃兼友か?)と共に貴久の味方として参じると、同年6月に市来侵攻で功を上げた。天文17年(1548年)の本田薫親退治の際は、佐多忠成と共に和睦の取次役を務めた。 その翌年に死去した。享年42。法名は「義雲源忠」。 ==参考文献== *『本藩人物誌』 鹿児島県史料集(13)(鹿児島県史料刊行委員会) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津忠俊」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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