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島津忠徳 : ミニ英和和英辞書
島津忠徳[しまつ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 

島津忠徳 ( リダイレクト:島津忠義 ) : ウィキペディア日本語版
島津忠義[しまづ ただよし]

島津 忠義(しまづ ただよし)は、幕末から明治時代の大名華族薩摩藩の第12代(最後)の藩主で、島津氏第29代当主。官位従一位参議勲等勲一等公爵
幼名壮之助通称又次郎元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義維新後の慶応4年(1868年1月16日に改名したである。
== 生涯 ==

島津氏分家の重富家当主・島津忠教の長男として生まれる。伯父・斉彬養嗣子となり、安政5年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。遺言では斉彬の子・哲丸が幼少のために仮養子という形だったが、ほどなくして哲丸は死去した。しかし、藩政の実権は当初祖父の斉興、次いで後見人となった父・久光(忠教)や西郷隆盛大久保利通らに掌握され、忠徳自身は若年ということもあり、主体性を発揮することはなかった(ただし、忠徳が実権を取り戻そうとしなかったことが薩摩藩が一致して倒幕運動を行うのに寄与した面もある)。
安政5年(1858年)2月7日江戸城江戸幕府第14代将軍徳川家茂謁見し、家茂から偏(「茂」の字)を授かって島津茂久と改名した。
安政6年(1859年2月従四位下・左近衛少将に叙任され修理大夫を称する。
15代将軍・徳川慶喜大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられて小御所会議に参席した。慶喜が発した討薩の表に於いて厳しく糾弾されるが、鳥羽・伏見の戦いでは薩長軍が大勝利を納めた。この直後、海陸軍総督に任命されるが西郷の進言に従い1日で辞任している。明治維新後は長州土佐肥前の3藩と協力して版籍奉還を進んで行なう。その後、名を「忠義」と改め薩摩藩知事となるが、実質的な藩政は西郷に任せていたと言われている。明治4年(1871年)の廃藩置県後は、公爵となった。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関らなかった。
明治17年(1884年)に鹿児島県令渡辺千秋に「造士館再建の願」を提出する。同年6月には「鹿児島県立中学造士館創立委員会」が発足(委員長は弟の珍彦だが、自身は委員に名を連ねていない)、自らは基金4万4621円と年々9400円ずつの定額寄金を県庁に委託、同年12月に鹿児島県立中学造士館が設立された。
明治21年(1888年)に政府の許可を受け鹿児島に帰郷した。明治23年(1890年)、帝国議会開設と共に貴族院公爵議員となる。
明治30年(1897年)12月、58歳で鹿児島市にて薨去した。没後、勲一等旭日桐花大綬章を授与された。翌年1月9日国葬が行なわれた。
墓所は、先代斉彬までの当主や父・久光は菩提寺だった「旧福昌寺跡」(鹿児島市立玉龍高校後側、現在同寺は薩摩川内市にある)だが、忠義以降は寺跡の西側の裏山「常安峰」にあり、双方とも尚古集成館島津興業)が管理している。
照国神社探勝園には忠義の銅像が建っている。第二次世界大戦中に金属供出されたが戦後再建された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「島津忠義」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Shimazu Tadayoshi (2nd) 」があります。




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