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島津忠行 : ミニ英和和英辞書
島津忠行[しまづ ただゆき]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [しま]
 【名詞】 1. island 
: [くだり, ぎょう]
 【名詞】 1. (1) line 2. row 3. (2) verse 

島津忠行 : ウィキペディア日本語版
島津忠行[しまづ ただゆき]

島津 忠行(しまづ ただゆき)は、鎌倉時代中期の武将島津忠綱の長男。
== 生涯 ==
鎌倉にあって6代将軍宗尊親王に仕える。『吾妻鏡』に「正嘉元年(1257年)十月一日大慈寺供養曼荼羅供己刻将軍家宗尊御出御馬十疋をひきい四は鹿毛忠行之を引いた。時に周防三郎左衛門尉忠行、同四郎左衛門尉忠泰共に之を引いた。」と記されている。
弘安2年(1279年)、播磨国下揖保荘(現在の兵庫県たつの市地頭職を母越後局より相続し同地に下向。子孫は在地の有力国衆となり、15代忠長までの事跡は『越前島津家文書』に記録されている。
幕府の御家人であった忠行の下揖保庄への下向は、一説では元寇および『筑紫大道』建設と関連していると考えられている。一度目の文永の役(1274年)後、の侵攻に備え、軍用道路である『筑紫大道』が建設されたと考えられている。『筑紫大道』の存在は近年の発掘調査及び法隆寺の古文書『法隆寺領斑鳩荘絵図』により確認されている。『法隆寺領斑鳩荘絵図』には『筑紫大道』が斑鳩荘を東西に横切っていたことが示されている。斑鳩荘(聖徳太子が朝廷から譲り受けたものを法隆寺に寄進した播磨国の荘園)斑鳩寺は、忠行が築城した立岡山城(石蜘城)の北500mに位置し、さらに1km北に『筑紫大道』が走っていた〔『郷土史たつの』第三版、平成4年、龍野市立図書館〕。
忠行は弘安6年(1283年)までに没し、その後、子の左衛門三郎行景左衛門六郎忠幹が下揖保荘の相続をめぐって争論したことが「沙弥行照播磨国下揖保荘地頭方紛失状」(『越前島津家文書』所収)によって知られる。また、『越前島津氏正統家譜』には忠行の官名について「三郎左衛門尉・周防守」とあるが、正応4年(1291年)12月7日付将軍家政所下文に「亡父左衛門忠行」云々とあり、また行景と忠幹がいずれも「左衛門」を冠していることから、実際は周防守に任官されず左衛門尉のまま終わったのではないかと推察できる〔杉本雅人『越前島津氏-その事歴と系譜』〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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