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島津 忠親(しまづ ただちか)は戦国時代の日向、薩摩の武将。北郷氏9代当主、豊州家5代当主。 都城を領する北郷忠相の長男であったが、天文15年(1546年)、豊州家島津忠広の養子であった次郎三郎賀久が夭逝したことから北郷氏を長男の時久に継がせ、養子として豊州家に入った。同18年(1549年)、養父の隠居により家督を継ぐ。 豊州家は代々日向伊東氏の侵攻に悩まされており、忠親も度々伊東氏の攻勢をしのいできた。しかし次第に伊東氏の圧力は増大。永禄3年(1560年)、島津宗家15代当主である島津貴久の次男で、猛将の誉れ高い義弘を養子として飫肥城の守備を任せた。同5年(1562年)、貴久の命で義弘が飫肥城を去ると伊東義祐が飫肥城を攻撃。忠親は義祐と和解し一旦は城を明け渡すが、数ヵ月後には夜襲をかけ城を奪還している。同11年(1568年)、義祐は二万の大軍を擁し、途中島津宗家の援軍を撃退しつつ飫肥城を包囲した。島津宗家では飫肥を放棄することを決定。兵糧攻めにあっていた忠親は城を脱出、飫肥城は陥落した。 飫肥城落城後、庄内(都城)に帰りその地で病没した。享年68。 == 参考文献== *『本藩人物誌 鹿児島県史料集第13集』鹿児島県立図書館、1973年 *『都城盆地 史跡ガイドブック ①旧都城市編』南九州文化研究会、2014年 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津忠親」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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