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島津 歳久(しまづ としひさ)は戦国時代の武将。島津貴久の三男で、島津義久、島津義弘の弟。日置家の祖にあたる。 == 生涯 == === 略歴 === 祖父の忠良(日新斎)から「始終の利害を察するの智計並びなく」という評価をされ〔、若年より父の貴久や兄の義久、義弘を助けて数々の合戦で活躍した。 その初陣は、天文23年(1554年)、歳久が17歳の時の祁答院良重が拠る大隅岩剣城における合戦で、同母兄の義久、義弘もこの合戦で初陣を果たす。岩剣城は三方を断崖に囲まれた天然の要塞で、戦いは激戦となるも、ついに落城。良重主従は、岩剣城を捨てて本拠のあった祁答院地方(現在のさつま町の大部分と薩摩川内市の一部)へ退くこととなる。 しかしその一年後の大隅蒲生北村城の合戦においては島津勢は敗北を喫し、義久・義弘兄弟は戦場より辛くも脱出し、歳久も敵中に孤立する中、重傷を負いながらも脱出した。歳久22歳のとき、蒲生本城落城によって蒲生合戦は終了している。 永禄5年(1562年)、島津氏・北郷氏・相良氏の三氏は、伊東氏により家督と領地を簒奪された北原氏の再興に助力するのだが、歳久は北原氏への恭順に応じない北原旧臣北原兼正討伐の総大将に任じられ、その居城である横川城を攻め落とした。その後、歳久は永禄6年(1563年)から吉田城(松尾城)の城主を命じられ、現在の鹿児島市吉田、佐多浦、本城、本名、宮之浦の統治を任され、44歳になるまでの18年間を吉田城主として過ごした。 この間にかつて姶良地方を追われ祁答院地方の虎居城(現・宮之城屋地)に拠った祁答院良重は、なお入来院氏、東郷氏らの渋谷一族と結んで強勢を保ったが、永禄9年(1566年)の正月に、妻(島津義虎の娘)によって暗殺され、祁答院氏の勢力は急速に衰退。元亀元年(1570年)、ついに入来院氏、東郷氏などの渋谷一族はこぞって帰順し、ここに島津氏は鎌倉時代以来強勢を誇った渋谷一族の拠点である祁答院地方を平定した。この平定された祁答院領には後に歳久が入る事になる。 天正5年(1577年)、日向の伊東義祐が島津勢に追われ豊後(大分県)に敗走すると、伊東氏一族の娘であった梅を梅君ヶ城に連れ帰る。梅は歳久の側室となり、後に伊集院久洪室を産む。歳久には、児島備中守女との間の長女(婿養子の島津忠隣室)と、この梅との間の次女しか子供は居ない。しかも、二人の室は、ともに連れ子ありの再婚である上、身分が正室にしては低すぎるとの事から、歳久は側室のみで、正室はいないとの見方がある。 天正8年(1580年)、先に平定された祁答院十二郷(現在のさつま町の佐志、湯田、時吉、虎居、平川、船木、久富木、鶴田、紫尾、柏原、求名、中津川)1万8千石を加増され、虎居城に入った。歳久はこの地をよく治めながら、三州統一や九州制圧において重要な役割を果して行く。その後は56歳で死去する12年間をこの祁答院虎居城(現在のさつま町宮之城)を本領として過ごしたため、歳久直属軍は祁答院衆(宮之城衆)と呼ばれた。後に歳久自害の報にこの祁答院衆を中心に3000が虎居城に立て籠もったりと、君臣間の信頼が厚かったとされる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津歳久」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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