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島津 貴儔(しまづ たかとも、宝永5年11月23日(1709年1月3日) - 寛政3年3月10日(1791年4月12日))は、薩摩藩士。大隅郡垂水〔現在の鹿児島県垂水市〕領主。家格は初め一所持、のち一門家。垂水島津家9代目当主。薩摩藩主島津吉貴3男。薩摩藩主島津継豊同母弟。幼名は小源太。諱は久典、貴儔。通称は玄蕃、備中、備前。号は静山。娘に島津都美。薩摩藩主島津重豪と佐土原藩藩主島津忠持の外祖父。また、11代将軍・徳川家斉の御台所・茂姫(近衛寔子)の曽祖父。宝暦6年(1756年)の『嶋津家分限帳』では「嶋津備中 1万7104石」とある。 == 生涯 == 兄の島津継豊が病弱で江戸にいることが多かったこともあって、元文元年(1736年)に父の吉貴より、家老座に出席して国政に参与するように命じられる。席次は家老の上とされた。「近世禰寝文書」では禰寝清香が正式に小松姓に変更の際に家老らとともに列席しているが、貴儔に「大老に準ず」との注釈がついている。一時、政務から退くが、兄継豊が死去すると重豪の命で再び政務に参加し、3年間藩政を後見する。 元文2年(1737年)7月18日に父吉貴より、薩摩藩では珍しい一字拝領を受け、「貴儔」と改める。貴儔以降、垂水島津家は代々「貴」の字を通字(元々この字は島津貴久が名前に用いたのが最初で、祖父の綱貴の代からも使用されていた)とした。同3年(1738年)5月、娘婿で加治木島津家の島津久門(後の島津重年、兄・継豊の子で自身の甥にもあたる)とともに家格一所持から新設された家格の一門家の初めとなる。この年のうちに、異母弟の島津忠紀が再興させた重富家も一門家となり、一門家筆頭となる。垂水家は当時最下位の席次であったが藩政に参与していた貴儔一代に限り垂水家が一門家筆頭とされた。(「列朝制度」参照) 孫の島津重豪や島津忠持の藩主就任はもとより、茂姫の徳川家斉との結婚、曾孫の島津斉宣の藩主就任を見届け、寛政3年(1791年)3月10日に死去。なお、この年の11月6日には玄孫の島津斉興が誕生している。享年82と、孫の重豪に劣らずの長命であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島津貴儔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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