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島田 良臣(しまだ の よしおみ、天長9年(832年)〔『外記補任』貞観15年条の年齢42歳による。〕 - 元慶6年8月13日(882年9月28日)〔滝川12 〕)は、平安時代前期の貴族。伊賀守・島田清田の孫で、伊勢介・島田忠臣の同母弟〔『田氏家集』巻中-101〕。官位は従五位下・大外記。 == 経歴 == 文章生から加賀権掾を務め、散位を経て貞観15年(873年)少外記に任ぜられる〔『外記補任』貞観15年条〕。この間の貞観13年(871年)渤海国入観使・楊成規らが加賀国の海岸に到着しており〔『日本三代実録』貞観13年12月11日条〕、良臣が在任中であれば渤海使への応対を務めたことが想定される〔滝川3 〕。また貞観15年(873年)には右大臣・藤原基経以下6名に国史(『日本文徳天皇実録』)編纂の詔があり、これに参画している(この時の官位は正六位上・散位)〔『日本文徳天皇実録』序文では貞観13年とあるが、序文の記載内容(官位および都良香の名)と史実に矛盾があることから、貞観15年の誤りとされる(松崎英一「日本文徳天皇実録編纂過程の研究」『律令制と古代社会』東京堂出版、1984年。坂本太郎「日本文徳天皇実録」『坂本太郎著作集 第三巻 六国史』吉川弘文館、1989年)〕。 貞観16年(874年)大外記に任ぜられ〔『外記補任』貞観16年条〕、貞観18年(876年)従五位下に叙爵〔『外記補任』貞観18年条〕する。当時は叙爵すると地方官に転じる傾向が見られるが、良臣はこののち元慶6年(882年)まで長く大外記を務めており、外記としての能力を認められていた可能性を指摘する意見もある〔滝川8 〕。またこの間、元慶2年(878年)に元慶度の日本書紀購書が始まった際に良臣は都議(尚復)を務め〔『日本三代実録』元慶2年2月25日条〕、元慶3年(879年)には『日本文徳天皇実録』が完成している。結局国史編纂開始から完成まで携わったのは、責任者の藤原基経と良臣の2人のみであった。元慶5年(881年)加賀介を兼帯するが、ここでも大外記に留まり加賀介は遙任で務めた〔『外記補任』元慶5年条〕。また、長きに亘り外記の官職にある一方で、藤原基経の近習も務めていたという〔『菅家文草』巻2-93〕。 元慶6年(882年)8月13日卒去。享年51。最終官位は大外記従五位下兼加賀介。良臣の死を悼んだ、兄・島田忠臣と菅原道真の手による漢詩作品が伝わっている〔『田氏家集』巻中-97、『菅家文草』巻2-93,101〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島田良臣」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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