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崇禎紀元(すうていきげん)は、朝鮮で使われた紀年法で、明の最後の元号である崇禎による紀元である。崇禎元年(1628年)から数えて「崇禎紀元後(숭정기원후)何年」または「崇禎後(숭정후)何年」と表す。後述の例のように、年数ではなく、干支と回数を使って表すこともある。 李氏朝鮮では、建国以来明から冊封され、明の元号を使っていたが、清の侵攻を受けて1637年に降伏し(三田渡の盟約)、明に代わって清から冊封を受けることになり、公式的には明の元号は使えないことになった。さらに1644年には明自体が滅び、清が明に代わって中国を支配する事となった。しかし李氏朝鮮では尊明排清の意識が強く、清を野蛮人扱いして侮蔑し、朝鮮こそが明が滅んだ後の中華の伝統を受け継いでいるのだとする小中華思想を持つようになった。そのため崇禎紀元という紀年法を作ったのである〔篠原啓方 「朝鮮時代の胎室加封碑に関する予備的考察 」 東アジア文化交渉研究 5号 2012年2月〕〔中純夫 「熱河日記~朝鮮知識人の中国紀行~ 」 京都府立大学図書館報なからぎ 162号 2003年1月〕。 == 例 == *崇禎紀元後八十三年=1710年〔金沢大学所蔵/近代教育掛図 0426 文烈公重峯趙先生戦場紀蹟碑拓本 二 〕 *崇禎後再癸丑=1733年(2回目の癸丑の年)〔心適堂,松巖,敬勝齋遺稿合編. Harvard University Library PDS 〕 *崇禎後百三十八年=1765年〔靑巖寺 龍巖禪師塔碑 디지털김천문화대전 塔碑 〕 *崇禎紀元後四乙丑=1865年(4回目の乙丑の年)〔金沢大学所蔵/近代教育掛図 0433 有明朝鮮両王子紀蹟碑拓本 〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崇禎紀元」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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