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崔光 : ウィキペディア日本語版
崔光[ちぇ がん]
崔 光(チェ・ガン、최광、1918年7月17日 - 1997年2月21日)は、朝鮮民主主義人民共和国軍人政治家朝鮮労働党政治局員、党中央軍事委員、国防委員会副委員長、人民武力部長(国防大臣)などを務めた。朝鮮人民軍元帥。別名は崔明錫
== 経歴 ==
1918年7月に咸鏡北道羅先市で生まれる。東北抗日聯軍で活動。1940年、第2路軍総指揮部警衛隊第2分隊長。1942年、第88旅団小隊長。ソ連軍事学校卒業。終戦後は延吉に派遣され、警備第2団団長に就任。1946年夏に帰国。
1948年2月に朝鮮人民軍第1師団参謀長に就任。1948年9月より最高人民会議代議員に選出。1950年6月に朝鮮人民軍第1師団長に就任するが、同年12月21日の党中央委員会全体会議において武亭金一林春秋らとともに批判を受け、解任される。ただし、武亭以外の満州派に属する者はまもなく復帰した。1952年10月に姜健軍官学校(現:姜健総合軍官学校)校長に就任。1953年10月に朝鮮人民軍第5軍団長に就任。1954年1月に朝鮮人民軍中将、第1集団軍参謀長に就任。
1956年4月の朝鮮労働党第3回党大会において党中央委員候補に選出〔和田(1992年)、371ページ〕。1958年6月に空軍司令官に就任。1960年6月に朝鮮人民軍上将に就任。
1961年9月の第4回党大会において党中央委員に選出〔和田(1992年)、372ページ〕。1962年9月に民族保衛省副相に就任。1963年2月に朝鮮人民軍大将、総参謀長に就任。1966年10月12日の第2回党代表者会において党政治委員会委員候補に補選される〔「1970年の北朝鮮 」『アジア動向年報』1970年版〕。1967年12月に最高人民会議常任委員に選出。1969年3月に失脚して鉱山労働者になる。
1976年4月に黄海南道の道人民委員会委員長に就任し、復活。1980年10月の第6回党大会において党中央委員、政治局員候補に選出。1981年3月に政務院副総理(副首相)に就任。1982年4月に政務院副総理兼水産委員長に就任。1988年2月12日に副総理を解任され、軍幹部に転出〔玉城(1988年)、71ページ〕。朝鮮人民軍総参謀長〔2月21日の報道で就任が判明。玉城(1988年)、71ページ〕、党中央軍事委員に就任するとともに、朝鮮人民軍大将に昇格。
1990年5月23日の第6期第党中央委員会第18回総会において党政治局委員に選出され〔「重要日誌 」『アジア動向年報』1990年版〕、国防委員会副委員長に就任。1991年、党中央軍事委員会委員に就任〔中川(1995年)、76ページ〕。1992年4月20日に朝鮮人民軍次帥の称号を授与される〔中川(1992年)、42ページ〕。1995年10月8日に人民武力部長に任命されるとともに、朝鮮人民軍元帥の称号を授与された〔「重要日誌 」『アジア動向年報』1995年版〕。
1997年2月21日に死去。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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