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崔昂[さい こう] 崔昂(さい こう、508年 - 565年)は、中国の北魏末から北斉にかけての官僚・政治家。字は懐遠。本貫は博陵郡安平県。 == 経歴 == 崔孝暐の子として生まれた。7歳のときに父を失い、伯父の崔孝芬に養育されて、「吾が家の千里の駒なり」と評された。初め元天穆に召されて参軍となった。次いで伏波将軍の号を加えられ、給事中に任じられた。後に中堅将軍の号を加えられ、奉車都尉に転じた。さらに定州刺史高琛の属官をつとめた。高澄が幕府を開くと、崔昂は召し出されて記室参軍となり、腹心の任を委ねられた。 高澄が輔政の任につくと、崔昂はその下で開府長史となった。この頃、東魏の勲臣の兵客には放埒で不法なふるまいに及ぶ者が多く、特に孫騰と司馬子如の一門には甚だしいものがあった。崔昂は高澄の密旨を受けて、不法行為に及ぶ者たちを逮捕したので、都下の風紀は粛然とした。崔昂は尚書左丞に転じ、度支尚書を兼ねた。 北斉が建国されると、散騎常侍に転じ、太府卿・大司農卿を兼ねた。横市の濫費314条を奏上して聞き入れられた。また邢卲とともに国初の礼を定め、華陽県男に封じられた。さらに律令の制定を命じられて、薛琡ら43人とともに領軍府で協議して定めた。廷尉卿に転じ、不正な蓄財に対して厳しく処断した。 559年(天保10年)、尚書右僕射を兼ね、数日後に正式に僕射となった。文宣帝が死去すると、僕射の任を解かれ、儀同三司の位を受けた。後に事件に連座して官爵を剥奪された。後に五兵尚書として復帰し、祠部尚書に転じた。565年(天統元年)6月29日、死去した。享年は58。趙州刺史の位を追贈された。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崔昂」の詳細全文を読む
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