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崔 烈(さい れつ、? - 192年)は、中国後漢末期の政治家・軍人。字は威考〔『孔彪碑』〕。父は崔盤〔『新唐書、宰相世系·崔氏』:盤生烈,後漢太尉、城門校尉。〕。子は崔均(字は元平、議郎〔『三国志集解、諸葛亮伝』が引く北魏梁祚の『魏国統』:州平兄元平為議郎,以忠直稱。董卓之亂,(崔)烈為卓兵所害,元平常思報復之心,会病卒。〕)・崔鈞(字は州平、虎賁中郎将〔『後漢書・崔駰伝』:(崔)鈞時為虎賁中郎将。〕・西河太守〔『新唐書、宰相世系·崔氏』:(烈)生鈞,字州平,西河太守。十世孫昂。〕〔 『後漢書·崔駰伝』:(崔)鈞少結交豪傑,有名稱,為西河太守。〕)。幽州涿郡安平県(現河北省衡水市)の人〔『後漢書』では博陵郡安平県の人と記されている。〕。 『後漢書』・『三国志』に記述がある。司徒・太尉・城門校尉。「漢故博陵太守孔府君碑」の碑陰に、「故吏、司徒掾」として名があることから、博陵郡の役人と司徒掾を経験していると推測される。 == 生涯 == 若いころから名高く、要職を歴任していた。 185年、霊帝の御代に売官制が行われた時、大金で司徒の官位を買い、自らの名声を失墜させた。また、子の崔均にも批判されるようになった(この時の崔均の発言から「銅臭」という成語が生まれた)。以後も太尉など要職を務めた(なお崔烈の後任として、187年に太尉となる曹嵩は、曹操の父である)。 西において韓遂・王国らが異民族と結んで反乱を起こすと、その対策として涼州を放棄する案を提案し、傅燮に激しく批判された。 霊帝没後、十常侍による何進暗殺と、袁紹らによる宦官誅殺事件により後漢朝が混乱すると、段珪が連れ去った霊帝の子の少帝と陳留王(後の献帝)を保護した。しかし、その後の董卓の専横の前には無力であり、関東に逃れた袁紹の挙兵に子の崔均が賛同したため、投獄されている。 董卓が王允・呂布らに暗殺された後、董卓の残党が蜂起すると城門校尉として長安を守備したものの、李傕らが長安を占拠すると、王允ら他の多くの官人と共に殺害された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崔烈」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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