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崔説[さい えつ] 崔説(さい えつ、512年 - 575年)は、北魏から北周にかけての官僚・軍人。本名は士約。本貫は博陵郡安平県。崔謙の弟。 == 経歴 == 崔楷の子として生まれた。領軍府録事を初任とし、諮議参軍に転じた。532年、賀抜勝が荊州刺史となると、士約は仮節・冠軍将軍・防城都督となった。534年、賀抜勝が侯景に敗れると、士約は賀抜勝に従って南朝梁に亡命した。537年、西魏に帰国した。衛将軍・都督の位を受け、安昌県子に封じられた。宇文泰の下で弘農や沙苑の戦いに参加し、功績を挙げた。爵位は侯に進み、京兆郡太守に任じられた。 帥都督に転じ、撫軍将軍・通直散騎常侍・大都督となり、車騎大将軍・儀同三司・都官尚書・定州大中正に進んで、安固県侯に改封された。宇文氏の姓を賜り、あわせて説の名を賜った。驃騎大将軍・開府儀同三司に進み、侍中の位を加えられ、万年県公に進封された。隴州刺史に任ぜられ、総管涼甘瓜三州諸軍事・涼州刺史に転じた。強引な統治で、民衆に恐れられた。 斉王宇文憲が東征すると、崔説はその下で行軍長史となった。帰還すると、使持節・崇徳安義等十三防熊和中等三州諸軍事となり、崇徳防主をつとめ、大将軍の任を加えられ、安平県公に改封された。575年1月10日、死去した。享年は64。鄜延丹綏長五州刺史の位を追贈された。諡は壮といった。 子の崔弘度は、上柱国・武郷郡公となった。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「崔説」の詳細全文を読む
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