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嵐 珏松郎(あらし かくまつろう、1878年5月15日 - 没年不詳〔『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、2002年。〕)は、日本の俳優である。本名は金子 松三郎(かねこ まつさぶろう)である。1933年(昭和8年)に1作だけトーキーに出演したが、ほかの出演作はすべてサイレント映画であった。「旺松郎」「斑松郎」「珀松郎」〔#外部リンク、「嵐旺松郎」「嵐斑松郎」「嵐珀松郎」、allcinema ONLINE、2009年11月7日閲覧。〕はすべて誤り〔。 == 人物・来歴 == 1878年(明治11年)5月15日、三重県飯高郡松坂村(現在の同県松阪市)に、歌舞伎俳優の嵐珏十郎を父に「金子松三郎」として生まれる〔。 19歳となる1897年(明治30年)ころ、関西歌舞伎の俳優・四代目嵐璃珏に弟子入りする〔。父とともに関西歌舞伎に名代出演する俳優に成長する〔映像フェスタ「京都映画草創期」調査報告 、立命館大学、2009年11月7日閲覧。〕。 1913年(大正2年)、35歳を迎えるころに、日活京都撮影所でサイレントの剣戟映画に出演しはじめる〔。1917年(大正6年)から本格的に出演を始めるが、翌年1918年(大正7年)10月から映画出演を休業し、舞台に戻る〔。同年11月24日に師の嵐璃珏が死去し、約1年後に再び日活京都撮影所に復帰する〔。当時の剣戟スター尾上松之助の共演者として、多くの剣戟映画に出演した〔。 珏松郎が48歳を迎え、1926年(大正15年)9月11日、尾上松之助が死去したのちは、大河内伝次郎主演作に助演するようになり、年齢につれて池田富保が監督する大作で大御所的役柄に座ることが増えた〔#外部リンク、「嵐珏松郎」、日本映画データベース、2009年11月7日閲覧。〕。 1931年(昭和6年)まで日活京都撮影所に所属し、200本近い映画に出演〔、満55歳になる1933年(昭和8年)、当時日活系の太秦発声映画で初めてのトーキーに出演した〔。映画出演に関しては同作をもって途絶える〔。その後の消息、死去時期等は不明である〔〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嵐かく松郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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