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嵐望 将輔(らんぼー〔通常の日本語表記では「らんぼう」となるところであるが、日本相撲協会公式HP、貴乃花部屋公式HPでも「らんぼー」としている。外部リンク参照。〕 しょうすけ、1972年7月2日 - )は、東京都福生市出身で貴乃花部屋(入門時は二子山部屋)所属の元大相撲力士、現世話人。本名は井上 高雄(いのうえ たかお)。愛称はランボー。身長183cm、体重177kg。血液型はA型。最高位は東幕下13枚目(1999年5月場所)。 == 来歴 == 東京都福生市の中学校を卒業して二子山部屋に入門し、1988年3月場所で初土俵を踏む。この場所に入門した力士は花の六三組と呼ばれ、横綱曙、貴乃花、3代目若乃花、大関魁皇らそうそうたる面々が並んでいる。初土俵時の四股名は「若井上」。 1988年9月場所から序二段で伸び悩み、1990年5月場所から「福の隆」の四股名を貰う。その改名した年の11月場所で三段目に初昇進。序二段に落ちていた1992年1月場所から5場所連続で勝ち越して同年11月場所では幕下に昇進、同場所も勝ち越した。師匠二子山親方(第45代横綱・初代若乃花)が停年退職する直前の1993年1月場所は自己最高位で迎えたが、その場所は負け越した。場所後、同期入門の若花田(のち3代目若乃花)、貴花田(のち2代目貴乃花)らが所属する藤島部屋と所属する二子山部屋が合併し、師匠も元大関・初代貴ノ花に代替わりした。 これにより稽古相手にも恵まれ、体も次第に大きくなっていくが、1993年9月場所は初の全休を経験する。その後は番付を戻して行き、一時は幕下16枚目まで番付が上がっていたが、1996年11月場所からは3場所連続全休と、怪我に苦しんだ。幕下から一気に序二段まで落ちてしまったが、復帰場所は格の違いを見せて7戦全勝で自身初の各段優勝を決める。幕下まで番付を戻したこともあったが、1998年7月場所では全休。三段目の土俵が続くが1999年1月場所で三段目優勝をすると、幕下に復帰した翌3月場所も6勝1敗の好成績で、5月場所ではついに関取昇進の可能性がある幕下15枚目以内に昇格した。しかしその場所は負け越し、その後は関取昇進はおろか、幕下15枚目以内にすら復帰できていない。2000年5月場所から、出身地の名前を四股名に取り入れた「福生乃花」に改名した。 しかし改名場所こそ6勝1敗であったものの、その後は成績が思うように上がらず、2001年9月場所で7戦全敗を記録したのを最後に引退まで幕下から遠ざかっていった。その後は三段目を維持することが続いていたが、2003年11月場所で序二段に幕下経験後では初めて陥落する。この時には、既に同期入門だった貴乃花は現役を引退して一代年寄を襲名しており、2004年1月場所後に二子山部屋を継承、貴乃花部屋と所属する部屋の名前が変わった。 2006年11月場所で再び序二段に陥落すると、以降は年齢から来る衰えもあり、三段目と序二段の往復が始まるようになり、2008年5月場所からは序二段に停滞するようになった。しかし、2011年5月技量審査場所で「嵐望」に改名すると、翌7月場所で6勝1敗と復調の兆しを見せ、9月場所では3年ぶりの三段目に復帰、それから4場所連続で三段目に在位した。 魁皇の引退後は、1988年3月場所初土俵としては最後の力士となり、部屋最古参(二子山部屋と藤島部屋が合併する前に入門した力士で最後まで現役を続けたのは嵐望)としてちゃんこ長を務めていたが、2013年5月場所を前にして40歳で現役引退を表明。現役引退後は日本相撲協会に世話人として採用された。〔若貴同期の嵐望引退で“黄金世代”消滅 日刊スポーツ 2013年5月1日閲覧〕 2013年10月28日には結婚した元OLの一般女性と都内のホテルで結婚披露宴を行い、北の湖、貴乃花、浅香山などの角界関係者や貴乃花部屋後援者ら約130人が式典に出席する中で祝福を受けた。〔『相撲』2013年12月号86頁〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嵐望将輔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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