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嵐 徳太郎(あらし とくたろう、1911年 - 没年不詳〔『芸能人物事典 明治大正昭和』、日外アソシエーツ、1998年。〕)は、日本の子役俳優、長じて俳優である。関西歌舞伎の舞台に幼少時に上がり、サイレント映画の子役として活躍した。のちに嵐 菊麿(-きくまろ)、嵐 長二郎(-ちょうじろう)と改名する〔。本名は片山 孝三郎(かたやま こうざぶろう)である〔。 == 人物・来歴 == 1911年(明治44年)、京都市に「片山孝三郎」として生まれる〔。 当時関西歌舞伎の俳優だった嵐璃徳の養子になり、5歳で初舞台を踏む〔。1920年(大正9年)5月、璃徳が一座とともに帝国キネマ演芸の設立に参加、9歳の徳太郎も入社、子役として映画に出演する〔。同年、一座の座付作者だった中川紫郎が監督した『少年忍術春若丸』で初めて主演を務める〔。 17歳になる1928年(昭和3年)、マキノ・プロダクション御室撮影所に移籍する〔。1930年(昭和5年)にはマキノを退社し、1932年(昭和7年)には「嵐菊麿」の名で東活映画社、「嵐長二郎」の名で河合映画製作社の映画にそれぞれ出演する。1933年(昭和8年)には「嵐徳太郎」に戻って新興キネマ、1934年(昭和9年)には阪東妻三郎プロダクションで映画出演する〔ころにはすでに23歳である。その後1936年(昭和11年)、大都映画に入社するが、1938年(昭和13年)には退社した〔。 第二次世界大戦開戦後に召集されて戦地に赴き、終戦後もシベリア抑留される。帰国後は、会社員となった〔。その後の消息、死去時期等は不明である〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嵐徳太郎」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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