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嵯峨 善兵(さが ぜんぺい、1909年5月18日 - 1989年3月13日)は、日本の俳優。本名は佐賀 善一。 新劇俳優から映画俳優となり、戦後に発生した東宝争議では山本薩夫、伊藤武郎らと組合側の先頭に立った。以後は独立プロ映画など多くの作品に出演している。また、独特な顔立ちからテレビドラマでは時代劇の悪役としても活躍した。 == 来歴・人物 == 1909年(明治42年)5月18日、石川県金沢市に生まれる。1男2女の長男で、生家は生糸と羽二重を製造していた〔『日本映画俳優全集・男優編』、キネマ旬報社、1979年、p.232〕。日本美術学校(現・日本美術専門学校)洋画科卒業〔嵯峨善兵 、新撰 芸能人物事典 明治~平成、コトバンク、2014年11月13日閲覧〕。 1929年(昭和3年)、日本プロレタリア美術家同盟に入るが俳優に転じ、同年東京左翼劇場に入り、6月の第12回公演『全線』で初舞台を踏む。その後新築地劇団、劇団金曜会、東京演劇集団などを転々として舞台活動を行う〔。 1932年(昭和7年)、日活を脱退した伊藤大輔、内田吐夢、田坂具隆、村田実らで結成した新映画社の設立第1作『昭和新撰組』に出演、映画初出演作となるが、翌1933年(昭和8年)に解散したため、同社メンバーと行動を共にして新興キネマに入社〔。1935年(昭和10年)にP.C.L.映画製作所へ移り、木村荘十二監督の『都会の怪異七時三分』等に出演。この頃一時期だけ細川ちか子と同棲していた〔藤森 節子『女優原泉子 中野重治と共に生きて』、新潮社、1994年、p.187〕。1937年(昭和12年)、東宝映画の専属となり、脇役として多くの映画に出演した。 1946年(昭和21年)から東宝争議が発生し、嵯峨は日本映画演劇労働組合(日映演)東宝支部中央執行委員として書記長を務め、日映演を代表して同年の全日本産業別労働組合会議(略称:産別会議)結成の中心を担い、副委員長として3次にわたる争議を指導する〔。1948年(昭和23年)、争議解決の条件に従い、伊藤武郎、山本薩夫、亀井文夫ら20名の組合幹部の一人として争議の責任をとって東宝を自発的に退社〔。1950年(昭和25年)、争議の妥結資金で製作した山本監督の『暴力の街』に出演。4月、本作の興行的成功を機に、山本・伊藤らと独立プロ新星映画社を設立。山本監督の『真空地帯』『太陽のない街』などの作品をプロデュースし、この間に山本、今井、新藤兼人ら独立プロの監督作品に多数出演した。 その後、劇団民藝に入団し、『夜明け前』や『狼』などの舞台に出演。同時に民藝が提携契約を結んでいる日活の映画にも多く出演し、アクション映画等で悪役を演じた。この頃からテレビドラマにも数多く出演しており、後年にはテレビ時代劇で悪役俳優として活躍する。悪代官よりは悪徳豪商を演じることが多く、現代劇でも政財界の黒幕役といった、冷酷かつ狭量な大物悪役を演じた。映画では山本薩夫の社会派大作『華麗なる一族』『金環蝕』『不毛地帯』に出番は少ないながらも重厚な演技を見せ、晩年は伊丹十三監督作品にも登場した。 1989年(平成元年)3月13日、心不全のため東京都新宿区の榊原記念病院で死去。。没後に放映された『翔んでる!平賀源内』第2話(1989年5月15日)が最後の出演であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嵯峨善兵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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