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嵯峨御所 : ミニ英和和英辞書
嵯峨御所[ところ, どころ]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ご, お, おん, み]
  1. (pref) honourable 2. honorable 
御所 : [ごしょ]
 【名詞】 1. old imperial palace 
: [ところ, どころ]
 (suf) place

嵯峨御所 ( リダイレクト:大覚寺 ) : ウィキペディア日本語版
大覚寺[だいかくじ]

大覚寺(だいかくじ)は、京都市右京区嵯峨にある、真言宗大覚寺派大本山の寺院。山号を嵯峨山と称する。本尊は不動明王を中心とする五大明王、開基は嵯峨天皇である。嵯峨天皇の離宮に改めた皇室ゆかりの寺院である。また、後宇多法皇がここで院政を行うなど、日本の政治史に深い関わりをもつ寺院である。また、嵯峨天皇に始まるという華道嵯峨御流を今に伝える寺でもある。
時代劇の撮影所が多い太秦の近くということもあり、寺の境内(大沢池や明智門など)は(特に時代劇の)映画テレビなどの撮影によく使われている (#舞台となった作品)。
==歴史==
嵯峨野の北東に位置するこの地には、平安時代初期に在位した嵯峨天皇が離宮を営んでいた。嵯峨天皇の信任を得ていた空海が、離宮内に五大明王を安置する堂を建て、修法を行ったのが起源とされる。嵯峨天皇が崩御してから30数年後の貞観18年(876年)、皇女の正子内親王淳和天皇皇后)が離宮を寺に改めたのが大覚寺である。淳和天皇の皇子(嵯峨天皇には孫にあたる)恒貞親王(恒寂(ごうじゃく)法親王、仁明天皇の廃太子)を開山(初代住職)とした。
鎌倉時代になると、亀山法皇や後宇多法皇が入寺し、ここで院政を行ったため嵯峨御所(さが ごしょ)とも呼ばれた。なかでも、後宇多法皇は伽藍の整備に力を尽くしたため、「中興の祖」と称されている。亀山法皇・後宇多法皇の系統は当寺にちなんで「大覚寺統」と呼ばれ、後深草天皇の系統の「持明院統」と交代で帝位についた(両統迭立)。この両系統が対立したことが、後の南北朝分裂につながったことはよく知られる。元中9年(1392年)、南北朝の和解が成立し、南朝最後の天皇である後亀山天皇から北朝後小松天皇に「三種の神器」が引き継がれたのも、ここ大覚寺においてであった。ただし、南北朝時代を通じて南朝方寺院であったというのは事実ではなく、南北朝分裂後に南朝方の性円法親王(後宇多法皇の皇子)と北朝方の寛尊法親王(亀山法皇の皇子)が相並ぶ分裂状態が続いたものの、南北朝が和解した時期には北朝・室町幕府方の有力寺院となり、後に室町幕府3代将軍であった足利義満の子・義昭を門跡に迎える素地となった〔大田壮一郎「大覚寺門跡と室町幕府」(初出:『日本史研究』443号(1999年)/所収:大田『室町幕府の政治と宗教』(塙書房、2014年) ISBN 978-4-8273-1264-5〕。
このように、皇室ゆかりの寺院であり、代々法親王が住職となった門跡寺院であるため、現在でも御所風の雰囲気がただよっている。御所跡地が国の史跡に指定されている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Daikaku-ji 」があります。




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