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島田 直時(しまだ なおとき)は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての旗本。大坂町奉行(初代西町奉行)を務めた。島田重次の三男。 == 生涯 == 父の領していた三河国矢作城にて生まれ、父と同じく徳川家康に仕えた。小田原征伐に出陣し、九戸一揆では陸奥国岩出沢へ、文禄・慶長の役の際にも名護屋城まで付き従っている。関ヶ原の戦いでは父重次が預かっていた足軽五十名を率いて奮戦したことを評されて、慶長7年(1602年)には鉄炮足軽三十名を預けられることになる。 その後は父や兄弟たちと同じく代官として甲斐国内での活動が見られる。直時は日向正成(半兵衛)とともに代官頭大久保長安に代わり、徳川忠長領であった甲斐へ赴任する。編纂物においては島田・日向両名は大久保長安と同様に「国奉行」として支配にあたったとされるが、残存する文書からもこれは確認されている〔村川浩平「甲斐国奉行の存否について」『日本近世武家政権論』〕。大坂の陣に従った後の元和2年(1616年)に父重次の足軽五十名を正式に引き継いだ。 元和5年(1619年)河内国交野郡森に領を得て、大坂町奉行(初代西町奉行)に任ぜられた。寛永2年(1625年)には従五位下越前守を叙任。さらに寛永4年(1628年)には堺奉行も兼ねるなど、順調に出世を重ね、活躍を見せていた。 寛永5年(1628年)8月10日に江戸城内で起こった老中井上正就に対する刃傷事件に責任を感じて、10月7日に自刃した。これは直時の娘を老中井上正就の嫡子正利に嫁がせるという縁談話を春日局などによる圧力によって反故にされ潰された仲人豊島信満による、正就の殺害事件である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「島田直時」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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