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嶺脇 育夫(みねわき いくお、1967年5月28日〔 - )は、日本の実業家。タワーレコード株式会社の代表取締役社長〔。秋田県出身〔。 == 略歴 == 中学生の時に忌野清志郎に共感を覚え、忌野に傾倒していく〔音楽がタダだとアーティストが育たない。だから一生懸命になって、CDを売りたいと思うんです タワーレコード 嶺脇育夫 1/3(現代ビジネス 講談社) .2011年12月6日閲覧。〕。勉強は嫌いであったが、音楽・本・映画を好む青春時代だったという〔。 1986年3月に秋田県立鷹巣高等学校を卒業〔。その後上京し〔、1988年3月にタワーレコード株式会社に入社〔。いくつかの店舗で勤務した後〔、1994年7月に心斎橋店の店長となった〔。同店の店長時代、試聴機に工夫を凝らしたりしたことから、当時のタワーレコード社長に「この店はお前の箱庭だな」と評価されていた〔音楽がタダだとアーティストが育たない。だから一生懸命になって、CDを売りたいと思うんです タワーレコード 嶺脇育夫 2/3(現代ビジネス 講談社) .2011年12月6日閲覧。〕。そうしたことから、1998年に「1000坪の箱庭を作ってくれ」と言われ新宿店の店長となった〔〔。 新宿店の店長となってからは以前より忙しい毎日を送っていた〔TopYell 2011年12月号 p.47〕。2000 - 2001年頃、家で疲れてテレビを見ていたところ、辻希美が出演しており「可愛いなぁ」と思ったことをきっかけとしてハロー!プロジェクト(以下「ハロプロ」)の一員であるモーニング娘。に興味を持つようになった〔〔。モーニング娘。の曲である「Memory 青春の光」を聴いたところ「カッコイイ」と思ったという〔タワレコ社長が語る ローカルアイドルの可能性(日刊SPA!) .2011年12月6日閲覧。〕。「そこから気づいたらズッポリ」という状態になり〔、毎日ハロプロの番組をVHSに録画して見るようになった〔。その後、中野サンプラザで行われたコンサートを新宿店のスタッフと共に見に行き、ミニモニ。のコスプレをしている人や、特攻服を着ている人がいたことから、ファンにも興味を持ったという〔。「コンサートの楽しさのうち、30%ぐらいは彼らが作り出しているんじゃないかな。」と評価している〔。さらに、Berryz工房(ハロプロ所属)やPerfumeにも興味を持つようになった〔。 当時のタワーレコードの風潮から、モーニング娘。は他チェーン店と比べあまり売れていなかったが、新宿店ではプッシュした結果売れるようになった。その後もプッシュし続け、カントリー娘。のイベントを行う・タンポポのフリーペーパーを配布する・ハロプロコーナーを設置し、そのコーナーの担当者が手作りのPOPを作成し店頭に出すなどの取り組みを行った結果、大量にCDを入荷できる状況になったという〔〔TopYell 2011年12月号 p.48〕。 2002年11月、第一店舗運営本部本部長に就任〔。タワーレコード全体としては、ハロプロやアイドルの音楽に注目していなかったことから、メロン記念日のファーストアルバムの入荷枚数も少なく、全然売れていない状態であった〔。そうしたことから「メロン記念日を売れ!」という命令を出した〔。その後、役員に就任し、取締役最高ブランド責任者兼最高情報責任者などを務めた後、2011年3月に代表取締役社長に就任〔。小売事業の強化・体質改善の一環として現場時代の長い嶺脇が社長になったという〔。 社長に就任して以降の2011年6月には、アイドル専門のレコードレーベルであるT-Palette Recordsを立ち上げ〔、レーベルの代表となった。本人もアイドルヲタであることから、T-Palette Recordsは「ヲタ目線、顧客視線のマーケティングで勝負していきたい」と嶺脇は考えている〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「嶺脇育夫」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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