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巖虎 寛一(いわとら かんいち、1948年1月27日-)は、熊本県八代郡千丁村(※現役当時。現・同県八代市)出身で、春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は松岡 一智(まつおか かずとも)。最高位は東前頭7枚目(1973年5月場所)。得意手は押し、突っ張り、叩きなど。現役時代の体格は177cm、111kg。 == 来歴・人物 == 貧しい家庭で生まれ育ち、小学生の頃から新聞配達、港湾荷役で家計を支えていた。 中学3年生の時に、春日野部屋の力士・栃ノ巖(近隣の、八代市出身)からスカウトを受けて角界入り。1962年5月場所にて、14歳で初土俵を踏んだ。当初の四股名は、「松岡山」。 その後、幕下中位まで番付を上げた。だが、母が生活苦を理由に家出したことにより相撲を辞めて市井で働くことを決し、1966年9月場所後に廃業した。 以後は、故郷に帰らずに奈良県大和高田市内の青果店にて10ヵ月ほど住み込みで働き、一時は支店を任される話も持ち上がった。 しかし、1967年4月に大阪府八尾市で先輩の栃王山と再会した際に父が亡くなったことを伝えられ、同時にそれを機に角界へ戻ってはどうかと勧められた。 悩んだ末、「相撲をやっていれば、母を見つけることができる」と動機を見出し、決意を固めた。 幸い、勤務先の店主が再入門のために退職を許した上に廃業届が受理されていなかったことで相撲協会に籍が残っていたため、同年7月に春日野部屋へ再入門した。 この時の四股名は、本名と同一の「松岡」。それから間もなく「巖虎」に改名しているが、これは、最初の入門時に世話をしてくれた「栃ノ巖」に因んでいる。 以来、順調に出世し、1971年7月場所で新十両に昇進。関取昇進後に母と再会したが、母は既に再婚して、別の姓を名乗っていたという。 その後も腐らず精進を重ね、1972年11月場所にて新入幕を果たした。1度目の入門から10年半、再入門からは、5年4ヵ月を要しての入幕であった。 体格には余り恵まれていなかったが、押しや突っ張りなど、多くの得意手を持っていた。 1973年7月場所中に左大腿部を負傷し、それによって幕内の座を失ってからは低迷。1975年5月場所では、三段目9枚目まで陥落する屈辱を味わっている(元幕内力士の三段目への陥落は、若吉葉以来、5年ぶりの事例)。 以降は復調して十両6枚目まで番付を戻すも、幕内への復帰は成らなかった。 東幕下27枚目に在位した1979年11月場所を以って、31歳で再廃業。 その後は、妻(1970年代後半に相撲を題材にした絵を描いていた画家、リン・スターム・レヴィ)とともにアメリカ合衆国へ移住し、ニューヨークで日本食の仕出し業に携ったという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巖虎寛一」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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