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巖谷 小波(いわや さざなみ、1870年7月4日(明治3年6月6日) - 1933年(昭和8年)9月5日)は、明治から大正にかけての作家、児童文学者、俳人〔俳人としては、『名家百人十句 - 俳壇の権威』(求光閣書店、1920年)に10句を掲載しているほか、佐々醒雪との校訂になる『俳諧叢書』(博文館、1921年)、俳論書『俳席便覧 俳通』(博文館、1916年)などの仕事がある(復本一郎「巌谷小波の「本情」論」『俳句芸術論』 沖積舎、2000年、185-190頁。)。〕。本名は季雄(すえお)。別号に漣山人(さざなみ さんじん)、楽天居、隔恋坊、大江小波がある〔「巌谷小波の紹介 - 明治・大正の文学者たちの書簡と草稿 」『関西学院大学図書館』。〕。 == 経歴 == === 医学を拒否して文学へ === 東京府東京市麹町区出身。巖谷家は近江水口藩の藩医の家柄である。父の巌谷一六は水口藩の徴士として新政府に出仕し、書家として認められ、政府の公文書を書き下ろす書記官の仕事にあたっていた。八重は一六の2番目の妻で、父にとって6番目、母には4番目の子が季雄である。身ごもっていた母は、父一六に呼ばれ上京し、東京で季雄を生んだが、小波の当初本籍は滋賀県にあった。母はその年の10月1日に肺炎で死んだ〔巌谷大四「巌谷家の系譜」173-174頁。〕。 父は官途で栄達しのち貴族院議員となり、季雄は裕福な家庭に育った。10歳のとき、兄巌谷立太郎が留学先のドイツから『オットーのメルヘン集』というドイツ語の本を贈ってきた。ヨーロッパの昔話や童話を多数おさめたこの本を、立太郎は医師になるために必要なドイツ語の勉強のために送ったようだが、季雄はむしろ文学に目覚めることとなった〔巌谷大四「巌谷家の系譜」177頁。三浦正雄「巌谷小波の怪異観」47頁。〕 平河小学校(現麹町小学校)卒業後、獨逸学協会学校(現:獨協中学・高等学校)へ入学するが、医者への道を歩ませられることを嫌い、周囲の反対の中で文学を志して進学を放棄、1887年(明治20年)文学結社の硯友社に入る。尾崎紅葉らと交わって、機関誌「我楽多文庫」に『五月鯉』(さつきごい)などの小説を発表したが、少年少女のセンチメンタルな恋愛を描く作品が多かった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「巌谷小波」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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